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都市伝説

rarkさんによる都市伝説にまつわる怖い話の投稿です

ベビーカー婆さん
長編 2025/11/17 21:10 1,142view

ベビーカー婆さん」

高校三年生の9月。受験を1ヶ月後に控えていた僕は、週に5日ほど学習塾に通っていた。夏休みから通い始め、ちょうど1ヶ月ほど経った頃、
その“異変”は突然僕の前に現れた。
9月10日。22時に講義が終わり、塾を後にした。塾から家までは自転車で20分ほどかかる。いつものように居酒屋の並ぶ道を抜け、T字の曲がり角に差し掛かる。ここはカーブミラーなどがなく、危ないので一時停止をしないといけない。ペダルをこぐ足を止め、自転車のブレーキを握った瞬間、嫌な空気と音が一瞬にして全身を巡った。
「ギギ…キィー…ギ、ギギ…」
錆びた鉄が擦れるような、嫌な音が耳を刺す。
(なんだ……? この音。)
不快感と、ほんの少しの好奇心を抱えながら角を曲がる。だが、2秒後にはその感情は一瞬で別の何かへと変わった。音の正体は、20メートルほど先にいた。
この道は工場の高い外壁に面しており、街灯はない。頼りになるのは自分の自転車のライトと、わずかな民家の明かりだけだ。民家の明かりにぼんやりと浮かび上がる人影が、何かを押すような姿勢で「キィー…」という嫌な音を立てながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
初めは、老人がシルバーカーでも押しているのだろうと思っていた。まあ、夜も遅い時間帯ということもあり、それだけでも十分おかしな光景なのだが、自転車の明かりに照らされた“それ”は、僕の想像の二つ、三つ上を行くものだった。
そこにいたのは、ベビーカーを押す、裸足の老婆だった。
老婆が歩くたびに、「ギギ…キィー…」と、ベビーカーが嫌な音を立てる。
顔は見えなかった。――いや、見ないようにしていた、という方が正しいだろう。
僕はペダルを踏む力を強めた。すれ違いざま、老婆が何かを呟いていたような気がした。しかし、振り返ってはいけない――そんな自分の中の歯止めが強く働き、そのまま全力でその道を抜けた。
9月11日。例の老婆を見た翌日から、軽い頭痛がするようになった。
とはいえ、その日は雨だったため、低気圧による頭痛か何かだろうと最初は思っていた。だが――1週間経っても治ることはなかった。
その間、塾の帰りに何度か例の老婆とすれ違うことがあったのだが、とくにこれといった実害はなかった。
だが、日を追うごとに、じわじわと精神的な疲れが蓄積していった。受験のストレスだと自分に言い聞かせてみても、胸の中に生まれた不安を拭い去ることはできなかった。
9月30日。気づけば受験2週間前に迫っていた。
この日も塾の講義を終え、帰路につく。自転車のペダルが妙に重く感じる。
「はぁ……」
深いため息をつきながら、例の老婆の出る道へと差し掛かる。
何度も老婆とすれ違っているので、慣れてきたはずなのに――僕は自転車のライトを消した。
見たくなかった。
いや、それ以上見続けていると、自分の方がどうにかなってしまう――そんな不安が、唐突に襲ってきたのだ。
自転車の光を失った道は、わずかな民家の明かりだけがぼんやりと照らしている。
だが、数秒もしないうちに僕は自転車をこぐ足を止めた。
というより、体が動かなくなったと言う方が正しい。
いつものように、老婆はそこにいた。
変わったのは――“ベビーカーの中”だった。
(嘘……だろ……。)
暗くてはっきりとは見えない。
だが、数秒前、民家の明かりに照らされた“それ”は、明らかに”人型の何か”だった。
「ギギ……キィー……ギギ……」
あの鉄が擦れるような嫌な音が、頭痛と耳鳴りを伴って襲いかかってくる。
音はどんどん近づいてくるのに、体はまだ動かない。
「キィー……ギギ……。」
気づくと、その音はすぐ近くにまで迫っていた。
無意識のうちに目を閉じてしまっていた。息が荒れ、自分の心臓の鼓動が耳の中で響く。
そして、音と気配がすぐ隣に到達した瞬間――
「……あ……あぁ……」
唸り声のような何かが、耳鳴りに混ざって聞こえてきた。
老婆ではない。
その声は、明らかに低い男の声だった。
全身に鳥肌が立つような感覚と同時に、体が勝手に動いていた。
ペダルを踏む足に力を込め、全力で自転車を漕いでいたのだと思う。気がついたときには、すでに例の真っ暗な道を抜けていた。
(辛い。苦しい。頭が痛い。気持ち悪い。)
心臓はまだ激しく脈打っていたが、僕の脳裏に浮かんだのは、老婆への恐怖ではなく、自己の内側から湧き出す不快な感情ばかりだった。
なんとも言えない虚無感に包まれながら、僕は家へと帰った。
次の日から、僕は遠回りをして帰るようになった。
いつもの道よりも10分ほど長くなるのだが、“あれ”を見た後だと、あの道を通る気には到底なれなかった。
しかし、老婆に会わなくなったからといって、自分の中に生まれた不安の塊が消えるわけではなかった。

そのせいなのだろうか、最近は頭痛や手の震えなど、精神的な負荷が身体にまで影響し始めていた。本気で病院にでも行こうかと考えたのだが、そんな時間があるはずもない。
友達とワイワイしている時は少し気が紛れるのだが、友達と別れて一人になった途端、最悪の状態に戻ってしまう。
(何か脳の病気なんじゃないか。もしそうなら……俺はこのまま死ぬのだろうか。)
駅のホームで電車を待ちながら、そんなことばかり考えていた。
まるで僕を嘲笑うかのように、電車が音を立ててホームに滑り込んでくる。扉が開き、僕は倒れ込むように座席へ身を沈めた。
……⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
塾の帰りにいつも通る道。
数メートル先には、ベビーカーを押す老婆がいる。
(ああ……またいるのか……。)
僕はいつものように、老婆の隣を通り過ぎようとする。
ガシッ……!
ちょうど老婆の横を通り抜けようとした瞬間、右腕に鈍い痛みが走った。ギョッとして右側を見ると、ベビーカーの中から伸びた腕が、僕の右腕をがっしりと掴んでいた。
その一瞬、僕は“中”を見てしまった。
「お……で……で……」
ベビーカーの中から、かすれた声が聞こえる。
そいつは、ぎぎぎ……と音を立てるように首を回し、こちらを向いた。
「おいでぇぇ……!!」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「次は、〇〇駅、〇〇駅です。お出口は左側です。開くドアにご注意ください。」
電車のアナウンスで、僕は目を覚ました。
(……夢、か……。)
何気なく辺りを見渡すとどうやら最寄りの駅に到着したようだった。
(妙にリアルで嫌な夢だな……。)
そんなふうに考えていたものの、実際には心臓がバクバクと激しく鳴っていた。目眩と頭痛が酷い。
僕は席を立ち、よろよろと足を運びながら駅のホームへ降りた。
その夜も、いつもと同じように塾で講義を受ける。内容自体は理解できるのだが、どうしても「不安」という感情が思考を邪魔してくる。そうこうしているうちに90分の講義はあっという間に過ぎ、僕は塾を後にした。
最近は帰り道を変えているため、例の老婆に会うことはない。しかし、頭痛やその他の症状は一向に治らないままだった。何も考えず、ただ自転車をこぐ。
10分ほど経ち、信号のない横断歩道に差し掛かる。
車はほとんど通らないので、いつも一時停止はしていない。
――が、そのとき僕は足を止めた。
(え……。どういうことだ……?)
体が凍りついたように固まる。
横断歩道を挟んだ先に、“ベビーカー婆さん”が立っていた。
僕の視線は一点に固定され、脳がこの状況を必死で処理しようとしている。
「ギィ……ギギ……キィー……。」
老婆が、ゆっくりと歩いてくる。
視線が自然と下へ向かう。ベビーカーの中は、何も無い。
いや、本来なら何もいない方がいい。しかし、
老婆がこちらに近づくにつれ、
「次はお前がここに入る番だ。」
そう言われているような気がしてならなかった。
「ギギ……キィー……ギ……」
ゆっくり……ゆっくり……。
錆びた鉄が擦れるような嫌な音が、耳を刺す。
「キィー……ギ……ギギ……。」
老婆の顔が、自転車のライトに照らされる。
深く刻まれたシワだらけの顔。その皮膚には、ひどい縫い傷のような跡があった。
「キィー……。ギギ……。」
体が動かない。
恐怖に支配された僕の視界には、虚ろな目をした老婆の顔が映り込んでいる。
「キィー……。カラカラカラ……。ギギ……。」
気づけば、老婆との距離はわずか2メートルほど。

寒い。
気温はそれほど低くないはずなのに、全身が凍えるように寒い。
「……」
先ほどまで聞こえていた音が止まる。
老婆が、僕の目の前で足を止めたのだ。
――ニヤリ。
虚ろだった目が一変し、不気味な笑みが浮かぶ。
恐怖はとうに限界を超えていた。
ほんの2秒ほどの出来事だったのかもしれない。
だが僕にとっては、まるで何分、何時間にも感じられるほど長い時間だった。
いろいろな感情が渦巻き、ぐちゃぐちゃになり、
自分の中の“何か”が壊れそうになった、その瞬間――
「プーーー!!」
静寂の夜に、耳をつんざくようなクラクションが響き渡った。横断歩道の上で長く静止していたためか、痺れを切らした車がクラクションを鳴らしたようだった。
僕の感覚では、まるで急に車が現れたかのように感じたのだが、当然そんな話を信じてもらえるはずもなく、運転手には散々罵倒され、そのまま車は夜の闇へと消えていった。
ただ、それは例のベビーカー婆さんも同じだった。
まるで初めから存在しなかったかのように、その姿はどこかへ消えてしまっていた。
それ以降、ベビーカー婆さんに会うことはなくなった。
精神的な症状も少し落ち着いてきたが、完全に消えることはなかった。
その後、無事に受験に合格し、学校で友達からこんな話を聞いた。
「なぁ、〇〇高校のやつが行方不明になったらしいぞ。」
周りの反応を見る限り、何人かは前から知っていたようだった。
だが僕はそんな話は一切聞いていない。友達が続きを話す。
「受験に落ちたあと、そいつ“ベビーカーを押す変なお婆さん”に遭遇するようになったって言い出したらしいんだけどさ……。
そんなことを言い始めてから、急に学校に来なくなったんだって。で、そっから行方不明で、警察も動いたりして───」
その言葉を聞いた瞬間、以降の話がまったく頭に入ってこなくなった。
ついさっきまで他人事だと思っていた話が、急に自分のことのように感じられたのだ。
「幻覚でも見えてたんじゃねーの?」
周りの友達は笑っていたが、僕はまったく笑えなかった。
詳しく聞こうとしたものの、その話を知っていた連中もまた、“その高校に通っている人から聞いた話”だと言う。
それ以上深掘りするのはやめておいた。
――あれは僕の精神的な病が生み出した幻覚なのだろうか?
それとも……。
後日、受験が終わった仲間とご飯を食べに行った。
だいぶ盛り上がり、帰りに最寄り駅へ着いた頃には、時計は23時を回っていた。
地元が同じ友達と少し歩いていたその時――
「キィー……。ギギ……。」
直接聞こえたわけではない。
だが、突然あの音が、頭の奥底に流れ込んでくる感覚がした。
足を止め、右側の脇道へと視線を向ける。
一瞬で、血の気が引いた。
暗さと距離のせいで、はっきりとは見えなかった。
だが街灯にぼんやりと浮かぶそのシルエットは、明らかにあの老婆だった。
ただ、そいつはこちらに近づいてくることはなかった。
「ん? どうかした?」
友達に声をかけられる。
僕はハッとして、
「いや、なんでもない。」
とだけ答え、再び歩き出した。
ふと、もう一度脇道を見ると、そのシルエットはすでに消えていた。
それ以降、そのようなことは起きていない。
だが――あの時、遠くに見えた“それ”も、ベビーカーの中にいる“そいつ”も、きっと。
不気味な笑みを浮かべていたのだろう。

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