夜になっても観光客が途切れない清水寺の舞台から、誰かが落ちたという噂が村中を駆け巡った。落ちたのは外国から来た若い女だという。理由は分からない。誰も見ていない。だがそれ以来、夜の境内を歩くと足元に水の滴るような音がついて回るという。
その女は願掛けのつもりで舞台から飛び降りたと言われた。かつてこの寺では願いを叶えるために自ら命を賭ける者がいたという話を、村の古老がひそひそと語った。命を投げ出せば観音がそれを受け止める。そう信じられていた時代があったと。だがその信仰はいつしか異様な形で残った。
その夜、俺は仕事の疲れを癒すために清水寺を訪れた。ライトに照らされた舞台は静かに浮かんでいた。人影はもうなく、ただ風だけが木々をざわつかせている。ふと、足下から滴るような音が聞こえた。水かと思ったが、この時間に雨は降っていない。
音を辿ると、舞台の下のほうから低いささやき声が聞こえた。女のような声だ。「お願いを叶えて…」そう繰り返している。消え入りそうなその声は、次第に低く太くなっていき、単なる願い事ではない何かを求めているように聞こえた。
俺は足を動かせなかった。舞台の下、闇の奥から白い影がゆらりと現れた。落ちて死んだはずの女だ。だがその瞳は不自然に光り、こちらをじっと見つめている。声ははっきりと聞こえた。「戻して…戻して…舞台から落ちた私を戻して…」
どう戻すのかその意味が分かった瞬間、影は観音像のほうを振り返った。観音像の背後に、黒い影のようなものが蠢いている。その影が低いうなり声を上げた。観音の背から這い出るようにして、もう一つの身体が形を成していく。落ちた者の恨みが宿った何かだと、直感で分かった。
俺は逃げようとしたが足が動かない。黒い影がこちらへ向かって這ってきた。声は既に女のものではなく、深い渇きのような唸りになっている。「願いを叶えろ…命を捧げた代償を…」その声が地面を震わせた。闇の中で、滴る音が一斉に鳴り始めた。足下の無数の滴は、落ちた者たちの叫びのようにも聞こえた。
気が付けば俺は舞台の縁に立っていた。背後から何かに押された気がした。振り返ることができない。闇の中の声が俺の耳元で囁いた。「私の代わりにここから…」その瞬間、無数の滴が一斉に音を立てた。






















※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。