それを話してくれたのは、うちのいとこの友だちのお姉さんで、湾岸の救急病院で夜勤をしていた人だということです。いまはもう別の職場に移ったらしくて、そのときの同僚ともあまり連絡を取っていないそうです。でも、あの夜の匂いだけは、いまでも急に思い出すと言っていました。
消毒薬と、湿った布と、あと、鉄みたいな匂いが混ざっていて、白くて冷たい空気の匂いだったそうです。
その日は救急外来の受付を一人で回していたらしいです。忙しくはなくて、救急車も来ていなくて、待合のテレビも消してあって、椅子がきれいに並びすぎている感じだったと言っていました。やることは、書類を確認したり、朝の準備をしたり、たまにインターホンを取るくらいだったそうです。静かすぎて、壁の中の換気の音が、遠くの波みたいに聞こえたと言っていました。
午前二時を過ぎると、いつも少しだけ温度が下がるらしいです。空調の切り替えだと聞いていたそうです。床のモップの跡が乾ききらなくて、ぬめった匂いがするのが嫌で、受付の下に置いていた柑橘の芳香剤を強めにしたと言っていました。
それなのに、その匂いが急に消えたそうです。鼻が慣れたとかじゃなくて、空気の厚みが変わった感じだった、と言っていました。誰かがドアを開けたみたいな感じなのに、自動扉の音は鳴っていなかったそうです。
受付の外に出て見回しても、誰もいなかったらしいです。そのとき、廊下の奥にあるはずの車椅子が一台見えなかった、と言っていました。でも、誰かが片づけたのだろうと思ったそうです。
それから、床のほうから、もぞり、みたいな音がしたらしいです。車輪の音ではなくて、濡れた布を引きずるみたいな音だったと言っていました。搬入口のほうから聞こえたそうです。夜はあまり使われない場所だそうです。
本当は受付を空にしてはいけない決まりだったけど、音が近づいてくる感じがして、懐中ライトを持って行ってしまったと言っていました。手がすごく乾いていて、汗もかいていなかったそうです。
通路の奥で動いていたのは、白い布で覆われたリネン用のカートだったらしいです。押し手がこちらに向いていて、誰かが押している形なのに、人はいなかったと言っていました。布が、ふくらんだり、しぼんだりしていたそうです。呼吸みたいだった、と小さな声で言っていました。
タグは透明で、何も書いていなかったそうです。
ライトを当てると、布の下から鉄みたいな匂いがしてきたと言っていました。綿の匂いではなかったそうです。ファスナーがついていて、少しだけ開けてしまったと言っていました。開けたくなかったけど、開けてしまったそうです。
中に入っていたのは布じゃなくて、薄いビニール袋がたくさん折りたたまれていたらしいです。全部同じ形で、全部同じ結び方で、きれいに揃っていたと言っていました。袋は少し黄ばんでいて、内側が曇っていたそうです。バーコードみたいなラベルが入っていたけど、文字は消されていたと言っていました。消した跡だけが、形で残っていたそうです。
袋の内側の曇りが、すこし動いた気がした、と言っていました。風はなかったそうです。袋は結ばれていたそうです。きつく、きれいに。
そのとき、布が内側から押し上げられたらしいです。一か所じゃなくて、いくつも場所を変えながら、少しずつ。ライトが落ちて、床に光が横に伸びたそうです。その光の中で、カートの下にできた影が、カートより少しだけ大きく見えたと言っていました。
走って受付に戻って、警備に電話したそうです。あとで確認すると、カートはあって、中身は回収リネンだということになったらしいです。ファスナーは閉まっていた、と言われたそうです。
そのまま朝になって、帰るときに、足首の内側に細い赤い線が二本あったそうです。いつついたのか分からないと言っていました。数時間で消えたそうです。
それからは、夜勤中に搬入口の通路へ一人で行かなくなったそうです。
最後に、その人はこう言っていました。
袋は、全部きれいに結ばれていた。あれは中から開けられないようにする結び方じゃなかった気がする、と。どちらかというと、外からほどけないようにしていたみたいだった、と。
でも、本当に結んでいたのが誰なのかは、分からないそうです。もしかしたら、ほどけないようにしていたのは、袋の中じゃなくて、あの通路のほうだったのかもしれない、と言っていました。
いまでも、夜中にふと、鉄と古い紙みたいな匂いがすると、受付の床に横倒しになった光のことを思い出すそうです。光の外側のほうが、ほんの少しだけ、暗かった、と。























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