「奴は、自分の名を確かめに来るんじゃ。忘れ去られてはならん、とでも言うようにな……」
「……どういうことですか? 子供の頃に来たって……それは、一体――」
俺は思わず問いかけた。だが老婆は編み棒を握りしめたまま、固く口を閉ざしてしまう。
中年の男も気まずそうに目を伏せ、村の空気が一気に重くなる。
「……もう、その話はやめようや」
男が小さくつぶやいた。
それ以上聞き出そうとしたが、老婆は何も答えなかった。ただ、かすかに震える唇の端が、過去の恐怖を物語っていた。
俺はようやく察した。この村には、本当に何かがあったのだと。けれど、それが何なのかは誰も語ろうとしない。いや、語れないのだ。
その後、俺は老婆と中年の男に礼を言い、村を後にした。別れ際、あの奇怪な文字列「鼃醫鸕鷃瘀龢驥鸜懸蠱」と書かれた紙を、スマホで撮影しておいた。
村の細い道を歩きながら、俺はぼんやりと画面を眺めていた。画面を見返しても、得体の知れない違和感しか残らない。読み方も意味も分からず、ただ気味の悪さだけが際立つ。
「……これ、レポートにどうまとめりゃいいんだ」
正直、単なる昔話として書けば済む話かもしれない。けれど“ 神か妖か分からない何かという曖昧さが、妙に引っかかって仕方がない。
資料としては珍しい、いや、むしろ危うすぎるのか。そんな思考が頭の中をぐるぐる回る。
そんな考えをしながら、歩いていると、ふと道端に違和感を覚えた。濁った透明としか言いようのないものがある。なんと言えばいいのか、まるで熱気に揺らぐ空気の塊が地面に落ちて、形を持ったような……それでいて、光が差し込むと溶ける水のように輪郭が崩れていく。
一瞬、人影のように見えた。だが次に瞬きをしたときには、獣の背のような曲線に変わり、さらに目を凝らせば、ただ影が濃くなっただけの空間にも思える。
目の錯覚かと思って、何度も瞬きをし、手でこすってみた。
だがそれは消えなかった。
濁った透明の塊は、波紋のように揺れながら、かすれた音を発した。
声とも風ともつかぬ、不明瞭な響き。だが確かに耳に届く。
「……ワ……レ……ダレ……?」
我誰。
その瞬間、老婆の話が脳裏によみがえった。
昔々、この村に何かがやってきた。何かは、村の者たちに自分は何者かと問いかけてきた。
村人は答えることができなかった。神なのか、妖なのか、それとも化け物なのか――誰にも分からなかった。
「……まさか、これが……」
喉が凍りついた。
伝承の中の何か。それが、今、自分の目の前にいるのか。
濁った透明の何かが、まるで自分の胸ぐらを掴むかのように迫ってくる。
「…ワ……レ……ダレ?……」

























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