十六歳で出産した私に世間は冷たかった。
頭が悪いとか股が緩いとか散々な言われようで、毎日泣いていた。
産んだばかりの子供を心から憎くも思った。
殺してしまおうかとも思った。
自分が死んでしまおうかとも思った。
でも私は殺さなかったし死ななかった。
私を救ったのは私を産んだ母だ。
私を産んだ時に死んだ母だった。
母は身体も丈夫じゃなかったし、私を身籠った時には命がけの出産になるかもと医者に言われていた。家族は全員止めたし、父は「堕ろせ!」と怒り狂ったらしい。
でも母は頑なだった。周囲にどれだけ詰め寄られようと、決して首を縦には振らなかった。
この話を聞いた時、私は父に対して不信感を抱いた。
自分で蒔いた種だろうと。自分が私を母の中に送り込んだんだろうと。
しかし、それは私の見当違いでしかなかった。
父には怒る理由がちゃんとあったのだ。
私と父は、血を分けた父娘ではなかった。
母は父の子を宿したのではなく、自分の父親の子を宿したのだ。
その事実を知った父は、義父である私の実の父に暴力を振るったらしい。
義父はその暴力を受けた結果死亡し、父は刑務所へと入った。
私を産んだ直後に母は死に、私は祖母と暮らすことを余儀なくされる。
祖母は夫を殺した男を憎んでいたけれど、反面、祖父のことも憎んでいた。実の娘に着床させた夫を心底憎み、嫌悪していた。
当然のように、その子種でもある私も憎しみの対象となった。
日常的な暴力は茶飯事で、私の身体から痣が消えることはなかった。
そして、数年で刑務所から出てきた父と幼い私は二人で暮らすことになる。
祖母から散々聞かされていた父親像とはまるで違う人間だった。
暴れたら手を付けられない偉丈夫だと想像していたけれど、彼は線が細く、見るからに頼りない中年男性でしかなかった。
小学生の私は父子家庭で育つ。痣が絶えなかった私の身体は肌色の面積が増え、Tシャツから出る素肌を晒すことにも抵抗がなくなり、周りの目も気にならなくなって数年が経ったある日の夜、トイレに起きた私は父が母の写真を手に泣いている姿を見た。
出所後は真面目に働き、酒の一滴も飲まずタバコも吸わず、聖人君子の様な日々をただ淡々と過ごしてきた父の感情を見るのは初めてだったこともあり、多少の驚きはあったけれど、それでもなぜか私は冷静で、この人も泣くことがあるのかと、冷めた感想しか抱かなかった。
そして私が中学を卒業する頃、父は自宅アパートの敷地にある古い大樹にロープを括りつけ自殺を決行する。そして未遂に終わる。
病院に行き、警察が来て、最近の様子とか心当たりはとか何やら色々聞かれて、とにかく面倒臭くて私は何も知りませんとだけ答えてベッドで横たわる父に侮蔑の目を向けた。
父はまた泣いていた。死にたかった。ごめんな。こんな親でごめんな。
泣きながら何度もそう言っていた。

























繰り返してるのはちょっとな..