海に戻った時、空はもう茜色に傾いていた。
波は変わらず、静かだった。
だが、佐原の耳には、それが遠い太古の神の心音のように聞こえていた。
彼は報告書にこう記すしかなかった。
「地質的には異常なし。現地に祠の痕跡。海との関連性不明。
潮成(しおなり)神社跡との関係を今後調査。」
だがそれは、建前だった。
彼はもう知っている。
この地には、“還る場所”がある。
神が棲む、海ではない海が。
第三章:沈むもの
あの日以来、Aは海へ行っていない。
海を見ると、心臓が締め付けられるのだという。
医師の診断では「急性ストレス反応」、つまり心因性の不調。
けれど、A自身は違うと感じていた。
「違うんだよ、怖いとかじゃない。……ただ、あの波の音が、俺の中にあるんだ。ずっと前から、そこにあったみたいに。」
Bは街を出た。
何も告げず、数週間後に引っ越していた。
LINEには既読がつかず、電話も繋がらなかった。
佐原はBの居場所を調べ、転居先を訪ねた。
出てきたのはBの母親だった。
彼女はひどく疲れた顔でこう言った。
「……あの子、夜中にね、“耳が濡れる”って言うの。寝てても急に飛び起きて、頭を振るのよ。まるで、耳の奥に……波が入りこんでくるみたいだって。」
――海の記憶。
――体の奥に染みついた“神の音”。
佐原は、それを“共鳴”と記録した。
信仰の記憶。あるいは、存在の侵食。
その夜、佐原も夢を見た。
祠の前。森の中。
地面に横たわる白い布のようなもの。
近づくと、それは人の形をしている。いや、“人だったもの”。
























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