呼吸も、言葉もない。
ただ、そこに横たわっている。
波の音が、空から降ってくる。
潮の満ち引きではない。
肉の中に入りこんでくるような、海の音。
ふいに、白いそれが顔をこちらに向けた。
目がない。口がない。
だが、確かに“見て”いる。
「……おぼえているね」
「きたこと、あるね」
「なぜ わすれたの」
佐原は立ち尽くしていた。
言葉も出ない。
その時、彼の足元に水が満ちていた。
暗く、重く、冷たい。
それは水ではない。血かもしれない。記憶かもしれない。
そして、声がした。
「おまえも しずむ」
「おまえのなかに わたしがいる」
「だから しずんで」
――目が覚めた時、シーツが濡れていた。
汗ではなかった。塩の匂いがした。
その日の夜、佐原は地元の資料館で古い記録に目を通していた。
何度も出てくる名――
潮成(しおなり)大人(うし)
それはこの地にかつて祀られていた、“海神とされるもの”の異称。
人の姿にして人にあらず。
潮の道を歩み、海の代わりを持ち、時折「人を呼ぶ」。
「潮成大人の祠、今は森に埋もれ。かつては白布をもって海辺に現る。
女のかたちをとるが、見てはならぬ。声に返してはならぬ。
呼ばれた者は、しずむ。」
この話は怖かったですか?
怖いに投票する 14票






















※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。