深夜の乗客
投稿者:綿貫 一 (31)
Aさんはすっかり力が抜けてしまった。少しでも怖がっていた先ほどまで自分が、馬鹿馬鹿しく思えた。
おおかた、この女は、飲み会で深酒をして、酔い覚ましに少し歩くつもりが、うっかり霊園に迷い込んだんだろう。
そして、たまたま通りかかったこのタクシーに手を挙げた。
それが証拠に、女の告げた行き先は、乗り込んだ場所からそれほど離れてはいなかった。
ほどなくして、目的地に到着した。
Aさんは、後部座席に向かって声をかけた。
「お客さん、着きましたよ――」
返事がない。
やれやれ、これだから酔っ払いは。そう思いながら、Aさんはバックミラーを覗きこんだ。
鏡の中に、女の姿はなかった。
「――えっ?」
(さっきまで、そこに座っていたはずなのに!)
一気に血の気がひいた。これでは、『あの』怪談話と同じ展開じゃないか。
客の姿が消え、後部座席には濡れた跡が――。
Aさんは慌てて振り返った。
そこで、彼が見たもの。それは――、
――なんのことはない。女は車の揺れに体勢を崩し、後部座席に横になって眠りこけていたのだった。
またまた一瞬だが肝を冷やした自分が恥ずかしくなり、それをごまかすため、少し怒気を含んだ声で女に呼びかける。
「ちょっと、お客さん。着きましたって。起きてください」
その声に女は目を覚まし、「ああ……、はいはい……」などとつぶやきながら、料金を支払った。
ところが、そこでゼンマイが切れてしまったかのように前のめりになり、再び寝始めてしまった。
(ったく、しょうがねえなあ――)
いくら呼びかけても起きない客にしびれをきらし、Aさんは車を降りて回り込むと、後部座席のドアを開けてやった。
幸いだったのは、先ほどまで降っていた雨が、すでに止んでいたことだ。おかげで濡れずにすんだ。
外から女に呼びかける。
「ほら、降りてください。忘れ物はしないでくださいよ」
「ふわあ」と、あくびだか返事だかわからない声を上げてから、女はのそのそと降りてきた。
そして、ふわふわと浮ついた足取りのまま、住宅街へと消えていった。
(やれやれ……)
その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、ひとつ大きなため息をつくと、Aさんは車に乗り込んだ。
オチがいい。面白かったです。
綿貫です。
おあとがよろしいようで。
たましい忘れてますよーww
いや、からだを忘れていったのでは?
わたしは体だと思います。