踏んづけられた。
あ、と短い二人の声が重なる。
「ごめんなさい」
私のスニーカーの上に乗った革靴がスっと退けられる。
横に居る男が軽く頭を下げた。年齢は三十代後半くらいだろうか、中肉中背を灰色のよれよれのスーツで包んでいる。
男の眉は下がっているものの、口角がぎこちなく上がっていた。その何とも言えない顔つきに私は率直に気持ち悪さを覚えた。
そんな感情を隅に追いやり、私も会釈を返す。
「ごめんなさいね」
再度、男が言った。一応私の会釈は『大丈夫です』の意だったのだが、どうやら男には伝わらなかったらしい。
「大丈夫です」
電車内で喋る気など更々なかったので、思ったより掠れた声になってしまった。しかしそれでも、言葉が一切行き来しない車内においては、確り声は届いたはずである。
私は自分の役目は果たした、と言わんばかりにスマホに視線を戻した。画面にはピンク色の可愛いバッグが映し出されている。
――五万かあ、どうしようかなあ。
「ごめんなさい」
また男の声。
男はまだ私のことを見ていた。開けられた口からは黄ばんだ歯が覗き、おじさん特有の加齢臭が鼻腔を突く。
「はい、大丈夫ですよ」
今度は少し大きめの声で、それでいて語気が強まらないように注意を払いながら言う。目の前の座席に座っていたホスト風の若者が、目だけで私を見遣るのが視界の端に映った。
私の言葉を受けても尚、男の表情は崩れなかった。いや、それどことか口角がどんどんと下がり、反省の色がより一層強まっている。
――え、何なのこの人。
もしかしたら新手のナンパなのかもしれない。いや、しかし、こんな衆人環視の中でナンパをする人などいるだろうか。しかも、電車内で?
心の奥が少しざわつくが、なるべく顔に出さないようにする。仮に変な人だとしたら、露骨な態度は余計に相手を刺激するだけだ。
「ごめんなさい」
男はまったく同じ声の調子で言った。その声色には確かに申し訳なさが込められているのだけど、寸分違わず同じ言葉を発する男はロボットのように見える。
なんだか気味が悪い。
「だから、大丈夫ですよ」
それでも私は平然を取り繕った返答をする。面倒事はなるべく避け、早くショッピング気分に戻りたい、その一心だった。
「ごめんなさいね」
まるで此方の言葉が聞こえていないかのようだ。既に男が変な人、というのは私の中で殆ど確信していた。
それなら。
「大丈夫ですから」
私はそう言い放つと、バッグからワイヤレスイヤフォンを取り出し、耳に装着した。着けると同時に、『接続しました』というアナウンスと機械音が流れる。耳の穴が塞がれ、環境音が遠のいた。
これで男の声は聞こえまい、私は心の中で勝ち誇る。音楽アプリを起動し、適当な曲を再生する。そうなると、周囲の音はまるで聞こえなくなり、柔らかい声色の男性アーティストが鼓膜を揺らしてくれた。
ふと眼前の窓に目を遣る。車窓には夜の景色が広がっており、住宅街が左に流れてゆく。窓には私の姿が映し出されている。
そして横に立つ男も――男は私の方を見ながら、口を動かしていた。何を言っているかは容易に分かった。
きも、と私は心の中で毒づき、音楽の世界に逃避した。

























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