秘匿
投稿者:砂の唄 (11)
私は20歳の頃に大きな事故にあった。事故の詳細は本筋と関係ないので省くが、そのせいで私は晩夏から晩秋までを病院で過ごす羽目になった。不幸中の幸いというやつか、神経の損傷はないらしく、リハビリに時間はかからなかった。だが、その時私は軽いPTSDだと診断されていて、退院後も定期的に通院をしながら服薬を続けていた。
入院した時からずいぶんと時間が経っていた。単位を修得できるだけ講義に出席できないのは分かっていたので、私は半年の間休学の身だ。アパートに一人でいるのも心配だということで、入院中から実家に戻って来いと言われていたが、あまり気乗りしない。だが、実家近くでも診てくれる病院があるからと、両親に押し切られる形で私は実家に戻った。その間バイトでもしようかとも思ったが、新しい主治医は「そう焦らなくていい」とあまりいい顔をしなかったので、私は家でじっとしているしかなかった。
そんな風にして実家で過ごしているとき、県外から叔父さんが私を訪ねて来てくれた。叔父さんは私のことを小さい頃から可愛がってくれていて、入院していた時にも何回かお見舞いに来てくれた。遠く離れたY県から遠路はるばる様子を見に来てくれたのだ。叔父さんは私の顔を見て安心したようで、色々と話をした後、私に「しばらく温泉にでも行ってみないか」と提案してきた。
詳しく話を聞いてみたが、何でもY県には知る人ぞ知る温泉街があるのだという。もっとも、当の叔父さんは5年住んでいて一度もその名前を聞いたことがなかったそうだが。つい最近、県外から来た友人がその温泉街のことを話していて、初めてその存在を知ったらしい。調べてみると確かにその温泉街は存在しており、観光案内を見ると、隠れ家的な雰囲気の場所で湯治にはぴったりだと思ったそうだ。
「お金は全部出してあげるから、温泉でゆっくりしてきたらいいよ。ずっと病院と家ばっかりじゃ参ってしまうだろう」叔父さんは私にそう言って、もちろん今すぐ決めなくてもいいと付け加えた。横で聞いていた父は「いいじゃないか」と好意的な感じで、台所の方にいた母も「行ってきなさいよ」と賛同していた。私はとりあえず、次の通院日に先生に聞いてみると話し、「許可が出たらぜひ行きたい」と率直な気持ちを伝えた。叔父さんは「分かったらいつでも連絡しなさい」と微笑んでいた。
次の診察で、私は先生に「行ってもいいだろうか」と聞いてみた。先生はあっさりと許可してくれて、「ちゃんと服薬するなら、1週間でも10日でも大丈夫だよ」と言っていた。早速
私は叔父さんに連絡をした。
「それなら1週間そこでのんびりしてくればいい」叔父さんはそう話し、私もその言葉に甘えることにした。それから何日かして、予約した宿のことや行き返りの交通手段について叔父さんから連絡があり、あっという間に時間は過ぎて、気づけば出発の前日だ。
私は自室で荷造りをしていて、父から借りたスーツケースは張り切れんばかりだった。荷造りが一段落すると、私は例の温泉について軽い下調べをしようと思いパソコンを起動した。しかし、隠れ家的温泉街にホームページなどあるのだろうかと思っていたが、予想に反してホームページは存在していた。それも、動画や画像の多さなど相当に手が込んであるもので、内容もかなり充実している。
どうやら、その温泉街には格式高い感じの旅館や現代風のホテルが10件ほどあるようだ。それぞれに温泉があって、宿泊客以外も安く入浴でき、おすすめの温泉歩きという項目もある。そこを見てみると端から端の温泉まで歩いても15分程度らしく、そこまで規模の大きい温泉街ではなさそうだ。私は宿一覧から宿泊予定のホテルを見つけた。そこの公式ホームページも大層立派なもので、ロビーや部屋の画像からかなり新しめのホテルであることが分かる。
私は大手の旅行サイトでもそのホテル名を検索してみた。いくつか探してみたが、ヒットしたのは2~3のサイトのみだった。隠れ家的雰囲気を大事にしてあまり宣伝をしていないのか?そんなことを考えながらコメント欄を見てみた。全部で5件しかなく、内容は部屋、サービス、温泉を絶賛するものばかりだ。ホテルの評価が高いことは伝わってくるが、それならもっとコメントの数があってもよさそうで、どうにも不可解というか、ちぐはぐな感じがする。しかし、私は遠足前のような高揚感が勝っていて、あまり深くは考えなかった。
当日、私は父に送られて空港まで行き、向こうの空港に到着すると叔父さんが車で迎えに来てくれた。そこから1時間経っても、2時間経っても到着する気配がなく私は助手席で眠ってしまっていた。目が覚めた頃には、車は山道を下り、道幅の広い平坦な道路に出てから、畑の間の細い農道へ入って行った。少しして、背の高い建物が見えてきた。
「随分と遠いところにあったなぁ。ここはY県の端の方だし、山と山の間じゃ利便が悪いな。県民でも中々来ないんじゃないか」叔父さんは率直にそう話していた。
空港からはるばる3時間半だ。近くに観光するような場所も見当たらず、それこそ長期滞在の湯治客ぐらいしかやってこない立地だろう。目的地に近づくにつれ、色々な建物が見えてきた。
その光景は私を驚愕させた。見えている建物があのホームページの画像と全く同じだった。語弊がないように言うと、目に入る建物があの画像と同様に異様なまでにきれいなのだ。ああいう画像は色調を調整したり、光量を上げたり何かしら修正されているはずで、実物は画像と見比べれば見劣りするのが普通だ。恐らく築10年位は経っている雰囲気はあるが、温泉街と言えば古くからあるものというイメージが強いせいか、この真新しい建物群にはどうにも違和感があった。
「それにしてもキレイなホテルだな。他の旅館もきれいだし、いつからやってるんだろうな、ここの温泉」
叔父さんも私と同じ感想を持っていたようで、目の前の光景にちょっとした違和感を持っているようだった。そもそも温泉街とは山間の畑の中にあるものだろうか?いや、山の方が地熱の関係で温泉が出やすいのか?考えているうちに車は「ようこそ〇〇温泉へ」と書かれたアーチのような看板を抜けて温泉街の中へと入って行った。温泉街の道路はきれいに舗装されていて、端の方で浴衣を着た数人の中年女性が手提げ袋を持って歩いていた。少し先にはセーターのようなものを着た白髪の男性がゆっくりと歩いていて、人通りは少ないがちゃんとお客さんはいるようだ。
「あった。あった。ここだな」車はある5階建てのホテルの前で止まった。見た目はビジネスホテルのようだが、濃いベージュの外壁が印象的だ。数本の松の木に囲まれた駐車場に車を止め、砂利の中の石畳を歩いてホテルの入り口まで向かった。ホテルの中はきらびやかではないが、真新しい感じがして清潔感があった。フロントには細身で白髪頭の中年の男性が立っていて、スーツケースを持った私達の姿が見えたのだろう、「ようこそおいでくださいました」と落ち着いた感じで挨拶をしてきた。なるほど、接客態度がよいという書き込みはまんざら嘘でもないらしい。
叔父さんが予約の内容を伝えると、その男性スタッフは用紙を2枚取り出してきてその1枚をこちらに差し出した。叔父さんはその用紙を私に手渡した。正式な名称は分からないが、それは氏名や住所を記入する用紙で、宿泊施設ならばどこにでもあるものだ。無論、私は嘘偽りなく枠内に住所や電話番号を記入した。男性スタッフは記入された用紙を受け取ると、2枚目の用紙を私の前に差し出した。
その最上段に書かれていた文字に、私は驚かずにはいられなかった。そこには誓約書と書かれていたのだ。
「当ホテルを含めまして、この〇〇温泉は物静かで落ち着いた雰囲気と美しい景観を大事にしています。つきましてはお客様にも協力していただきたく思っております。こうした物々しい書類を差し出すことの無礼も心得てはおりますが、どうかご理解ください」慇懃な様子でその男性スタッフは説明をしていた。
最初こそ身構えていたが、内容を見てみると「ごみなどを道端に捨てない」「屋外では大きな声を出さない」「立ち入り禁止と書かれた場所には立ち入らない」等々、仰々しいことは書いていなかった。
ただ一つ「夜間の外出は控えてください」という項目が私は気になっていた。恐る恐る聞いてみると、「お恥ずかしい話ですが、〇〇温泉は街灯の数が少なく、夜遅くともなればホテルや旅館の明かりも消えてしまいます。転倒や落し物といったこともありますので遅い時間帯の外出はご遠慮いただいております」
私は「あぁそうなんですか」と納得して、その誓約書に自分の名前を書き込んだ。一通り目を通したが、特におかしな内容は見受けられず、これはあくまで形式的なもの、少し嫌な言い方をすればこれは儀式めいたお願いでしかない、私はそういう風にこの誓約書を解釈していた。
私は「トイレに行く」と言い残して、一旦その場を離れた。トイレから戻ると、男性スタッフは地図や食事券を提示して、設備や食事、〇〇温泉についての説明を始めた。説明は10分ぐらい続き、私は部屋の鍵を受け取ると、叔父さんと一緒にエレベーターに乗って4階の自分の部屋へと向かった。
叔父さんは部屋に入るなり何とも素っ頓狂な声を上げた。「はー、すごいなぁ、俺が昔住んでたアパートの100倍上等だ。これであの値段とは、なんかあるんじゃないか?」
部屋は和室で、数えてはないが10畳以上の広さがあったと思う。薄型の大きな液晶テレビ、ウォシュレットをはじめ多彩な機能が付いた清潔なトイレ、何とも今風というか、やはりこのホテルはとにかく新しい。荷物を部屋の片隅に置いて、私と叔父さんは大浴場に向かった。せっかくなので、叔父さんも温泉を何件か楽しんでから戻ることにしたようだ。
ゾクゾクした
最後、笑顔で何て言ってたんだろう‥非通知に出たら何を言われるのか‥想像力を掻き立てられます。
こわ…、
もう温泉旅館にいけませんw