あれは平成20年頃の5月か6月のことだったと思う。
住んでいたのは人口40万人程の、大きくはないがそこそこの規模の町。
5階建て、各階5部屋の小さなマンション住まい。
入居していたのは1階南端の部屋だった。
その夜、幼稚園児の娘を寝かしつけ、自分もそのまま一緒に眠りについていたのだが、外で誰かが叫んでいる声で目が覚めた。
時刻は夜中の0時頃。
「助けて!」と叫んでいるように聞こえた。
叫び声の主は女性のようで、「事件か? 誰かに追われているのか? 何か助けてあげられることはあるか?」と考えた。
マンションの西側から聞こえるその叫び声は、段々と近付いてきていた。
西側にはちょうど玄関があったため、そこへ移動してドア越しに外の様子を聞いていた。
妻には娘を見ていてくれるよう頼んだ。
声がいよいよ近付いてきたが、何となく一ヶ所に留まっているような気配だったので、恐る恐るではあるが思い切って玄関を少し開けてみた。
見えたのは、30代位で髪はセミロング、ジーパン姿の女性が、うちのマンション1階北端の部屋の玄関ドアを叩きながら叫んでいる姿だった。
右手にはどうやらフライパンを持っていて、一瞬「夫婦喧嘩から逃げてきたのか?」とも思ったが、妙なことに頭の周りで振り回している。
誰かが追って来ている、といったこともないようだった。
その女性と目が合う前にドアを閉め、何を叫んでいるのかよく聞いてみた。
「助けて!早く!。虫、虫が来るぅ!」みたいなことを叫んでいた。
フライパンを頭の周りで振り回していたのは、多分、自分を襲ってくる虫の幻覚が見えていて、それを払いのけようとしていたから、と想像できた。
ハエ叩き(今時使わないか)でもタオルでもなくフライパンなのはなぜ?
よほど大きな虫でも見えていたのか?
その北端の部屋の住人は、何も対応はしなかったようで(留守だったかも知れないが)、叫ぶ女性はうちの部屋の方へは来なかった。
マンション前の通り道の方から声が聞こえてきたので、そちらに移動して行ったようだった。
念のため、その通り道まで出てみたが、そこに女性はもう見当たらず、また声も聞こえては来ず、ひとまず安心した。
警察を呼んだ人もいなかったようで、パトカーが来るといったこともなかった。
妻とは、気の病んじゃった人だったのかな、とか話をして就寝した。
この一件のことはすぐに忘れてしまったのだが、1週間程経った頃、思い出させられることがあった。
その日、残業で会社を出るのが夜の1時頃になってしまった。
自転車通勤だった私は、せっせとペダルをこいで夜道を急いだ。
狭い路地を左折し、マンション前の通り道に出た(今思えば、あの女性が消えていった通り道だ)。
すると、街灯の薄暗がりの中、前方10mか15m先に何か黒っぽい物が浮いているのが見えた。
大きさは手の平よりちょっと大きい位?、高さ1m位をこちらに向かって真っ直ぐ動いてくる。
「気のせいか?」と思っていると、黒いそれはあっと言う間に目の前まで来た。
思わず急ブレーキをかけて自転車を止め、右手でそれを払い除けた。
が、それは手にも体にも触れず、自分の後ろに通り抜け、振り向いても何もいなかった。
払い除ける瞬間、薄暗がりの中に見たそれは、大きな蝶だった。
ただし普通の蝶ではなく、民芸品によくある切絵みたいな、黒い太めの線が蝶の形をしている、そんな姿だった。
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