廃村になった理由は食人なのか…真相は不明
投稿者:健人 (3)
明治初期まで中国地方の○○県の山間部に名前もないある村が存在してました。
しかし村自体が江戸から明治に変わる文明の移り変わりについて行けずに次第に村人が離れていき最終的には自然と廃村となったと言い伝えられています。
ただし、あまり知られて無いのですがもう一つ別の理由が近隣の町や村の人間には伝わっており年配の方にとってはもう一つの話の方が本当の理由だそうです。
当時のこの村は山間部に位置する場所柄のために周りとはかなり孤立した生活を余儀なくされてました。
近くの村や町までかなりの距離があり、移動するにしても徒歩で山をいくつも超えて数日かけてやっと到着出来る状態でした。その為に食べ物は基本近くの山や川の自然の恵みに頼る生活でかなり困窮した生活を昔からおくっていました。
ここまでの話は当時の日本にはよくある話ですがこの村には他には無い変わった風習が独自に芽吹いていました。いわゆる食人です。読んで字のごとく人間を食べる習慣。食べる物がないこの村では食べる側の人数を減らせて食料も手に入るこの風習はこの村にとっては合理的で昔から行われていたそうです。
又、食人のターゲットになるのは大概が子供〜10代後半で年寄りは火を入れると食べる所が無いと言う理由で省かれていました。運良く免れた子供達が次第に大人になっていき今度は食べる側に回る。そうした生き残りが集まる集落がこの村の正体だったのです。
といっても人を食べるのは年に2回。夏のお祭りと冬場の雪で食べる物がない時と決まっており、それ以外は基本的に自然の恵みで耐え忍んでいました。ところが明治初期の頃に記録的な水不足がこの地方一帯を襲います。水が降らないので山の植物が育たず、植物が育たないのでそれを食べにくる動物もいない。
挙句、川は干上がり魚も取れない、そんな状態が続くと村人達も生きてはいけず、ある日、村の大人達で話し合いが行われます。
そこで決まった結論は『子供を食べる機会をもっと増やそう』でした。制限を付けなくなってから村から子供がいなくなるのは早かったそうです。
冬を前にして村から子供の数は0になりました。しかしこれからの冬に備えての蓄えは村にはありません。そこで村の大人達が再度集まり話し合いが行われます。
次に決まった結論は『年齢の制限を無くしてしまおう』でした。この村では冬があけて春になる頃には働き盛りの大人は誰一人残っていません。残っているのは年配者と言われる年寄りばかり。年寄りは山を越えたり、狩りに出たり、山の恵みを採取しに出かけたり出来ません。結局残っている年寄りは1人を残してそのまま餓死したそうです。最後の1人は春があけて誰も山から降りて来ない事を心配に思った近隣の住民が村を訪ねて発見したそうです。
この村を訪ねた人の話だと村にあったのは大量の人骨と数体の年寄りのミイラと最後の1人。その最後の1人が山をおり、近くの村に移り住んだ事によりこの村は人が1人も居なくなり廃村となりました。コレが当時の近隣に住んでいた方から言い伝えられているもう一つの理由です。どちらが正しいのかは令和の今となっては分かりません。
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