金切声がした。
私は天井を仰ぐ。耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだが、それを聞くことが贖罪のようにも思う。
息子は毎夜、何をしているのだろう。恐ろしいので見に行けない。扉の先の事実を知ってしまえば、きっと私はまともではいられない。
これは息子の声だろうか。
甲高いその叫び声は女性のものなのか男性のものなのか判別がつかない。だから、息子の声にも思えるし、他人の声にも思える。
もし女性なら――。
想像を絶する事態が起きているに違いない。そう思わせる程、その声は異常だ。
血に塗れた室内を想起する。そういえば私が小さい頃に、部屋で女性を監禁し、一年間拷問を加える事件があった。
私はかぶりを振った。
金切声は三か月ほど続いている。もし息子がそのようなことをしていたとして、果たして被害者は毎日、叫び声をあげることができるだろうか。肉体は勿論、精神も衰弱し、叫ぶ余力などあるはずもない。
金切声の強度ははじめて聞こえた時から然程、変わらない。
そうなると、愈々わからなくなる。
拷問でなくても、たとえば強姦などであっても、やはり三カ月にわたって同じ悲鳴を上げることは出来ないだろう。では部屋で行われているのは事件性のあるものではないのか。
厭だ。考えたくない。しかし、あの声を聞くと考えたくなくても、自然と脳裏に浮かんできてしまう。想像が膨らみ、頭が重くなる。頭痛がする。眩暈もする。憂鬱になる。
考えうる可能性の中で一番マシなのは、奇声の主が息子であることだろう。息子の気が狂ってしまったという事実は生じるものの、人様には迷惑をかけていない。苦しむのは精々、私くらいだ。
迷惑。
近所の人間はこの声をどう思っているのだろう。これほどの声量なのだから、近所に聞こえていないはずがない。そのうえ声は鼓膜を貫通して脳を揺さぶるくらいの不快さを持っている。何をしていても一度は中断してしまうような煩わしさ。それが他人の家から聞こえてくるのだから、近隣住民からしたら堪ったものではない。
しかし。
苦情を言われたことはない。
自分で言うのもなんだが、私は近所付き合いが良い方である。他の人から煙たがられている木山さんとも仲が良い。仲が良いというか、どうやら私に対する印象が良いらしく、満面の笑みで挨拶をしてくれる。
みな、私に気を遣っているのか。気を遣って、黙っていられるレヴェルではないだろう。私なら即刻、匿名で警察に通報する。最悪の場合、引っ越すことだって検討する。
それほど不快だ。我慢できるはずがない。
また金切声がした。
普通は一日に一度だが、時折、複数回することがある。今日は今回ので、二度目だった。
そして私は今した金切声を頭の中で反芻して、あることに気づいた。
金切声は言葉になっている。いつからそうなっていたのか分からない。流石に、ずっと前からそうだったのであれば、精神が摩耗している私であっても気づくだろう。
本当に言葉だったのかの確証はない。偶然、そう聞こえただけかもしれないし、私の精神がおかしくなってしまっているのかもしれない。
しかし、聞こえた。
――おかあさん。
そう言っていた。
私は弾かれるように立った。膝がテーブルに当たって湯飲みが倒れた。緑色の液体が机上に広がっていく。私は数秒それを茫然と眺めた後、背を向けた。
階段を駆け上がり、息子の部屋へ向かう。二階の電気はついておらず、薄暗い闇に覆われている。それでも息子の部屋の位置は把握している。
手探りでドアノブを探し当て、下へ押した。息子はいつも部屋に鍵をかけている。開くはずもない。
しかし、ドアノブは完全に下がりきり、そのまま扉を押すと音もなく開いた。
イカ臭い匂いが鼻腔を撫でる。少し憂鬱な気分が胸を過るが、ここまできたら引き返せまい。私はゆっくりと扉を開きながら、隙間から恐る恐る覗き込んだ。
部屋は廊下よりも明るかった。窓から月明りが射し込み、銀色が部屋の陰影を明瞭に浮かび上がらせている。
「タケヒコ?」
息子の名を呼んだのは久しぶりな気がする。隙間が徐々に広がっていき、部屋の様子が明らかになっていく。
ベッドの上に、誰かが立っている。
女の影に見えた。私は息を呑み、扉を閉めようと思った。しかし意志に反して、体が勝手に扉を開けていく。
ついに部屋の全容が明らかになった。
ベッドの上の人影以外、人の気配はない。息子の部屋はクローゼットもなく、置いてある家具も最低限なので、隠れる場所はない。
やはり、ベッドの上に居たのは女だった。最初はベッドの上に立っているのかと思ったが、違った。
女は天井から伸びたロープで首を吊っている。顔は逆光でまったく見えなかった。
「ひいい!」
私は尻もちをついた。足が竦んで、動くことができない。女の死体が微かに揺れる。視線だけを動かして、必死に息子の姿を探す。
どこだ。息子は。息子は――。
息子?
私の家に息子など居ただろうか。
タケヒコはどういう字を書くのだろう。親である私が知らないはずもない。でもまったく見当がつかない。
それに、金切声の主は一体誰なのだろう。目の前の死体が叫び声を発するはずがない。
そうだ。タケヒコはどこか別の部屋に隠れているのだ。二階には他に、私の寝室と夫の書斎がある。
竦みがなくなり、私は逃げ込むように手前にあった寝室を開ける。しかし、やはり人の気配はない。一応、クローゼットも開いてみたが、誰もいない。夫の書斎も同様だった。
私は廊下にわなわなとへたり込んだ。視線の先には、開け放たれた扉とその向こうに女の影がある。
どうなっている。私は気が触れているのか。
誰かが階段を上がってくる音がした。
誰だ。この足音は誰だ。
腰壁があるせいで私の位置からはそれが誰なのか窺い知ることが出来ない。腰が抜けているわけではないが、立ち上がる気力はでなかった。
ぬっと人影が現れた。暗くて、男か女かも分からない。それはゆっくりとした動作で、女のいる部屋に向かい、それから、力強く扉が閉められた。
しじまが辺りに満ちた。



























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