深夜の研究棟に残っていると、においがする。
古い紙を湿らせたような、焦げにも似た、甘くない匂いだ。換気扇は止めている。実験台も片づいている。それでも、四階の廊下の奥から、ゆっくりと流れ込んでくる。
最初は気のせいだと思った。深夜まで残ることは珍しくない。匂いは疲労のせいだと片づけた。
あの夜までは。
学会の前日だった。論文の最終確認で、零時を回っても一人でパソコンに向かっていた。蛍光灯は半分だけ点灯していて、廊下は青白い。
給湯室へ向かうと、流し台の前に男が立っていた。
灰色のジャケット。白衣ではない。年齢は分からない。眼鏡の奥の目が、ひどく乾いて見えた。
「D棟は、ご存じですか」
声はかすれていた。
「外に出て左です」
そう答えると、男は首を振った。
「標本室。二〇二」
部屋番号を知っているのに、なぜ聞くのか。
「そこにあるはずの保管ケース。白い蓋のもの。移してください」
命令ではなかった。頼みでもなかった。事実を告げる調子だった。
「誰が」
「あなたが」
そのとき、匂いが強くなった。給湯室の排水口から、ゆっくりと立ち上る。
「もう移しました」
男が言った。
私は何もしていない。標本室にも行っていない。
「あなたの棚にあります」
言い切ったあと、男は給湯室の奥へ歩いた。突き当たりは壁だ。だが、次の瞬間にはいなかった。
廊下に出ると、一定の距離を保つ足音が後ろに続いた。振り返らない。研究室に入り、鍵をかけた。
すぐにノックがあった。規則正しく、同じ間隔で。
「移しました。確認してください」
守衛室に電話をかけた。
「四階に誰かいます」
受話器の向こうで、沈黙が落ちた。
「先生、四階は昨日から立入禁止です。水漏れで封鎖しています。今、施錠確認に向かわせますが」





















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