空気が重くなる前に、匂いが変わります。
これ、変なこと言ってるの分かってます。でも本当です。
雨の前の土の匂いじゃないです。もっと甘いです。でも冷たいです。鉄と、ろうそくを溶かしたみたいな匂い。少しだけ、はちみつみたいなのも混ざってる感じがします。でも吸うと、鼻の奥がきゅっとします。
その匂いがすると、わたしの体が少し遠くなります。
コップを持っても、ちゃんと触ってるのに、うすい紙が一枚はさまってるみたいになります。机を叩いても、すぐに痛くならなくて、あとから骨にひびく感じがします。
ぼんやりしてるわけじゃないです。むしろ、いつもよりはっきりしてます。
ただ、わたしと、わたしの体のあいだに、少しだけすきまができるみたいなんです。
小さいころからありました。秋が多かったです。怖くはなかったです。いつか元に戻るって、なんとなく分かってたからです。
でも、十二歳の秋から、変になりました。
父の同僚の人が家に来て、わたしを見て、変な顔をしました。
「先月、うちの近所で会いましたよね」
って言ったんです。
赤いジャケットを着て、路地に入っていったって。
赤いジャケットは、わたしのです。でもその日は家にいました。お腹が痛くて、ずっと布団にいました。日記にも書いてあります。
父は否定しました。でもその人は、本当に見た顔でした。冗談じゃない顔でした。
それから、何回もありました。
橋のそばで見たって言う人。図書館の裏で、ずっとこっちを見てたって言う子。
みんな、少し困った顔で言います。
その日は決まって、あの匂いがしていた日です。体が遠くなる日です。
昔の日記に、こんなことが書いてあります。
「今日は長い時間、どこかにいた気がする。帰ってきたら、靴の裏に泥がついてた」
でもその日、わたしは一日中部屋にいました。靴は下駄箱にありました。泥は乾いてました。
二十代になってから、その匂いは来なくなりました。
終わったんだと思ってました。
先週、甥が泊まりに来ました。
夜、リビングで一緒にテレビを見てました。
急に甥が、わたしの腕をつかみました。
「伯母さん、遠い」
って言いました。
意味が分からなくて、聞き返しました。

























※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。