「な・・・・・・?」
鈴木さんが喉の奥で短い悲鳴を上げました。 目の前で首を吊っているのは、紛れもなく人間だ。なら、この紙を貼った『僕』と名乗るものは、どこにいるのか。この死体は、私たちをここまで誘い込むための、ただの『餌』だったというのか。
「悪い予感がする・・・。引き返しましょう。今すぐに」
吉田さんの一言が静寂を切り裂きました。 そのとき時刻は15時近く。樹海の15時は、下界の夜の始まりです。頭上を覆う厚い枝葉が、陽の光を容赦なく遮っていく。吉田さんは、かすかに震える手でその場所をGPSに記録しました。彼が長年向き合ってきた『絶望』とは明らかに質の違う、邪悪な何かがこの場所に満ちていました。
帰路は、死に物狂いでした。光を失いかけた森は、急速にその輪郭を溶かし、黒い怪物となって私たちに迫ります。そのときでした。カメラマンが少し先に何かを見つけたのです。
約50メートル先。 暗がりのなか、誰かが体育座りをして、こちらに背を向けている。救助を待つ生存者・・・貼り紙の“主”かもしれない。そう思いたかった。しかし、そのシルエットは、人間の座り方としてはあまりに不自然でした。
「吉田さん、あれ・・・」
カメラマンが、確認のためにカメラの望遠レンズを覗き込んだ、その瞬間でした。
「ひっ・・・!!」
彼は小さな悲鳴を上げ、商売道具のカメラを放り出し、その場にへたり込みました。
「首が・・・首が回ってる! 一周回って、こっちを見て笑ってる!」
私も・・・見てしまったんです。背中をこちらに向けたまま、その男の頭部だけが、ゆっくり・・・ゆっくり回りながら“ミ・・・リ・・・ミリ・・・リ・・・という、生々しい肉の軋む音を立てていた。距離から考えたらまず聞こえるはずもない。しかし、静寂に包まれた樹海のにその音が気味悪く小さく響いていた。1周・・・また1周と男の首は止まることなく回り続けている。その表情は、口角が耳元まで裂けたような、狂気に満ちた笑みが張り付いていました。それは、吉田さんが命をかけて救おうとしてきた『魂』などではなく、この森が何十年もかけて育て上げた、人ならざる悪意そのものでした。
「静かに!落ち着いて迂回しましょう」
吉田さんは、特に慌てる佐藤くんと鈴木さんの肩に手を置き一呼吸してから、私たちを先導しました。 その者を中心とし、大きく円を描くように迂回しながらゆっくりと歩みを進める。いくらゆっくりとはいえ総勢6名が列をなして進むんです。パキン・・・パキンと否が応でも枝を踏む音が空間に響き渡る。その音が奴に聞こえていないか・・・実際には聞こえていたんでしょう。でもこちらを気取られていないと思い込んで誰もが歩みを進めていました。
底なし沼に落ちたかの如く息苦しさを感じながら、ようやく奴を背にする位置まで進んだときでした。カチャ、カチャ、カチャと、何かが硬い節足で這い寄ってくるような音が、すぐそこまで迫っていました。何が迫っているのかわからない恐怖が・・・迫りくる恐怖に私たちは振り返ることができなかった。
それでも何とか遊歩道まで辿り着き、少し離れた場所に停車している車のヘッドライトが見えたときには、全員が泥と汗にまみれ、呼吸もままならない状態でした。 真っ暗な森を振り返り、吉田さんはいつまでも立ち尽くしていました。
「・・・・・・プロデューサーさん。教育現場で『命は大切だ』と説くたびに、私はあの日見た『僕』を思い出すんです。この世には、言葉も、慈悲も、救いも届かない、ただ純粋な悪意の深淵がある。あの子も、あの『僕』に呼ばれてしまったのかもしれない……」
あの貼り紙との因果関係は、今もわかりません。 ただ、ひとつだけ確かなことがあります。 もし、あの時私たちが『僕』を見つけてしまっていたら・・・。今、この話をあなたにしているのは、私ではない別の『何か』だったかもしれません。
そんな話です。
~後日談~
























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