私(薪割り)は怖い話やホラーが好きだと言うことを、知人や仕事場の人に話しています。
どこからかその話を聞いた取引先のメーカー勤務であるSさんが、酒の席で話してくれた話を私が加筆を行ったものです。
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「怖いっていうか、あれは……嫌な話なんだけどさ」
大学生の頃、地方から東京の大学に出てきて、最初に住んだ部屋がある。今みたいに学生マンションだのオートロックだのが当たり前になる前の、古い木造アパートだった。
駅からは歩いて十数分。大通りを一本外れると急に空が狭くなるような住宅街で、昼間でも路地が薄暗い。飲食店の裏手に回ると、油と生ゴミが混ざった匂いが漂っていて、夏はそれがぬるい風に乗ってくる。アパートはその一角、二階建てで、外壁の色がもはや何色だったのか分からないくらい褪せていた。
廊下は外に面した「外廊下」で、雨の日は床板に濡れた跡が残る。踏むと、ぎし、と間の抜けた音がする。手すりも頼りなく、触れると微かに揺れた。
部屋は六畳一間。畳の端が少し浮いていて、壁紙は白というより薄く黄ばんだ色。小さな流し台と、申し訳程度のガスコンロ置き場。窓を開けても隣の家の壁が近くて、風が抜ける感じはなかった。共同トイレは一階の突き当たりで、便器の陶器の縁には、どうしても拭ききれない薄い茶色が染みている。洗面台の蛇口は捻るタイプで、水が出るまでにワンテンポ遅れた。
Sさんは、それでも「こんなもんだろ」と思ったらしい。実家も裕福ではなく、古い家に慣れていた。設備がどうこう、というより、東京で暮らすための踏み台だと思えば我慢できた。
ただひとつ、どうしても慣れないものがあった。
隣の部屋の男だ。
正確に言えば、男そのものというより、男の部屋から漏れてくる匂い。
最初に気づいたのは引っ越しの二日目だった。段ボールを開けて服をハンガーに掛けていると、ふっと甘い匂いをSさんは感じた。香水の甘さというよりも、もっとねっとりした甘さ。コンビニのお菓子売り場みたいな匂いと、花の香りを無理やり濃くしたような匂いが一緒になっている。甘いのに、どこか舌の根が苦くなる感じ。
「最初は、誰かが柔軟剤でも使ってるのかなって思ったんだよ」
ところが、それが日に日に強くなる。廊下に出た瞬間から、もう分かる。自分の部屋のドアを閉めたはずなのに、ふとした拍子にその匂いが入り込んでくる。夜、布団に入って目を閉じたとき、鼻の奥に残って、眠りの浅いときに頭痛がしてくる。甘い匂いが、脳みその表面を指で撫でられるようにまとわりついて、気が散る。
匂いの厄介なところは、どこから入ってきているのか見えないところだ。隙間風みたいに「ここだ」と指させない。換気扇を回しても、窓を開けても、薄まるどころか、空気の流れでむしろ部屋全体に広がる。
さらに気持ち悪いのが、匂いがするのは「隣の部屋の前」だけ、ということだった。外廊下の階段を上がってきて、Sさんの部屋と隣の部屋が並ぶあたりに差し掛かると、空気が急に変わる。数歩離れると薄くなる。二階の反対側の住人の前ではほとんどしない。一階では感じない。まるで、その一室だけが甘さを発酵させているようだった。
Sさんが言うには、隣室の男は、見た目は普通だったという。五十代くらいで、背は高くも低くもない。青ひげが生えていて、目つきが鋭いというより、感情がないような仏頂面。廊下で顔を合わせても、会釈をしても返さないことが多い。かといって、怒鳴るとか、絡むとか、そういう派手なトラブルはない。静かな男だった。
ある日、Sさんが男の部屋の前を通ったときに、ドアの隙間から匂いが「むっ」と噴き出してくるのを感じたことがある。湿った甘さ。喉の奥に貼りつくような、濃い空気。思わず息を止めた。
長い間この匂いに困っていたが、これはもう耐えられないと思い、Sさんは大家に相談しにいった。
大家は一階の端に住む中年の女性で、ちょうど玄関前の植木に水やりをしているところだった。Sさんが事情を説明すると、大家は困ったような顔をして、Sさんにこう言った。
「あの人はねぇ……ちょっと、特別だから」
それ以上は言わない。
「いや、でも……匂いがきつくて、頭痛がして」
Sさんが食い下がると、大家は話を切り上げるように、植木鉢の葉をいじった。
「昔からそうなの。こっちも、いろいろあるのよ。あなた、学生さんでしょ。勉強大事だもんね、窓閉めてれば……」
どこか、目を合わせない言い方だったという。「迷惑です」と言っているのに、「仕方ない」で終わらせようとする。その不自然さが、匂い以上に嫌な感じを残した。
納得できなかったSさんは、直に男と話すしかないと思った。なるべく冷静に、匂いが辛いこと、換気の工夫をしてほしいことだけを伝えようと決めて、昼間、隣の部屋の前に立った。
ドアの前は、いつもより甘さが濃い。鼻の奥がじんと痛む。呼吸が浅くなる。ドアの郵便受けは半開きで、紙が詰まっているのが見えた。チャイムはなく、ノックするしかない。

























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