恵那地方の山中にある高校で経験した山の怪異について
投稿者:岩男の憂い (1)
この地域に生まれると、山の怪異とでも表現すればよいのか、いわば「山にまつわる恐ろしい話」をたくさん知りながら、気にすることなく育つことになる。 それは、あまりに山深いために、そのようなささいな山の怪異についていちいち気にかけていては暮らしていけないせいでもある。
だから正確には知らずに育つというよりは、いちいち聞かずに育つというほうが正しく、ある種不協和音のようなものと捉えているのであろう。
厳密にいうならこのような山深い地方の里に生まれ育ったとしても、山の怪異について村人の間には情報格差が存在している。 この格差は、端的には村落の構造に由来するものではないかと思う。
山里の成り立ちは様々であろうが、稲作を軸に生活があるとするなら、条件の悪い地形においても谷底の両側の形成される猫の額のような谷底平野は最初に水田になり、その後に条件の悪い山地へと新田開発が試みられていくという流れは自然なことである。
谷底平野には里者が比較的安定した暮らしをしており、恐らくは私財をなげうって山地に新田を求めた者たちは、山人とも呼ばれ、わずかばかりの田畑を開墾しても生活に足らず、林業や狩猟などにより山の幸をわずかな足しとして、山に飲まれるようにして住まう。
私が暮らした村では、里者と山人の間には、同じ寒村の住民でありながら、易しく表現するなら都会者と田舎者の区別が代々にわたり存在し続けていた。
この視点でみるとき、谷底平野に暮らす里者は山の怪異について聞く耳を閉ざして暮らしてきたのであり、山人は自分たちを飲み込むように囲う森の中で日々山の怪異を経験して暮らしてきたということができる。 したがって、このような山里には山の怪異についてあまたの見聞があるが、多数派を占める里者には意識もされず、まして伝承もされず埋もれているのだと考えられる。
私は昭和後期にこのような恵那地方の寒村に山人として生まれ、幼い頃から山の怪異を見聞しながら高校を卒業するまで暮らした。
平成5年、私が高校2年の晩秋に経験した最も色濃い山の怪異について紹介する。 この地域の山中に、昭和40年代後半に開校した公立高校があった。 木曽川の上流にあたる付知川を見下ろす山の中腹に立地し、校庭の全面をサツキが囲んでいるため、皐月台とも呼ばれる場所である。
私は演劇部に所属しており、ちょうど夏に3年生が引退をして、自分たちが取り仕切る初めての地域公演に向けて練習に励んでいた。 ある週末、当時は土曜日も授業があったので、日曜日のことだと思う。 この日は朝から、演劇部が練習するステージのある格技館で、目前に迫る上演のため部員たちの通し練習が続いていた。
昼過ぎに始まった舞台が中盤を過ぎたころ、格技館のD型屋根に何かがぶつかり、屋根を転がり落ちる物音がした。 恐らくは石のようなもので、ガツンと屋根に当たった音がした後、ガラガラと音をたてて屋根を転がるのである。 2回、3回と続いたときには、きっと誰かがいたずらをしているのだと確信した。 休日に部活動をするクラブが少ない小規模な高校であり、演劇部のほかにこの日に活動している部活動を見なかったが、気付かないだけでどこかが活動しており、自分たちの同級生あたりがいたずらを仕掛けているのだろう、そんな受け止めであった。
私は舞台の正面で通し練習を見ていたが、脇に座る同級生のIに視線を向けると、彼もそう認識しているようで頷き、私に顎をしゃくった。 そこで、二人で格技館の門扉を出ることにした。 正午頃ににわか雨が降っていたが、雨はあがって外はわずかに日が差していた。
投石があったと思われるのは、山肌に面した側であるので格技館を回り込んでみたが、いたずらをしていた当人は全く見当たらない。 それよりも変に思ったのは、山肌側から格技館の屋根に投石をするのはなかなか難しいという事実だった。
山肌を切土して校舎と校庭、格技館、テニスコートなどを造成している関係上、格技館の外は4mほどの敷地を残して、急傾斜な赤土の山肌である。 山肌の先には獣道もない雑木林と、当時にはとっくに破綻していた林業経営の結果、枝打ちもされず幽霊のように痩せたヒノキの植林が真っ黒に広がっている。 この植林の中から投石をしているのだろうかと考えたが、タバコを吸う生徒さえ立ち入らないやぶと森の中である。 植林の中にはシイタケを生やす菌糸を植えたホダ木を置いている場所があると聞いたことがあるが、その林道の入り口がどこか見当もつかない。
今年の2月頃だったでしょうか、排水系統を調べる仕事でその高校跡地に行きました。
格技館は対象でなかったので見ませんでしたが、この話を知っていたらそもそもこの仕事を断っていたかも…。