疲れたサラリーマンが仕事帰りに起こした交通事故
投稿者:タングステンの心 (9)
確かに助手席にひとが座っています。
私よりもうんと座高の低い、白髪の老人が座っているのが視界に端に見えてしまったのでした。それはこちらを覗き込むようにして座っており、私の視界に短く刈り込んだ白髪と皺のある額が見えていました。
「……っ」
私が声も出せずにいると、それは口のあたりをもごもごさせてなにか低く唸っているようでした。次の瞬間、それは私の左手首のまだ傷が残るあたりをつかむと、老人とは思えない力で、あのときの夢と同じような力でぐいと引っ張るのでした。視界が左に傾いていきます。
……
気がつくと、私の車は歩道の縁石に乗り上げていました。そこでは、歩道と道路は同じ高さで、縁石の部分だけが高くなっておりました。ガガガガガと嫌な音を立てて、車は鉄道を走る電車のように為す術もなく縁石の上にその腹を擦りつけながら進んでいきます。しばらく進んだところに縁石の切れ目が見えてきましたので、私はブレーキをかけました。
どうにか車が止まったときには、助手席にひとなどおりませんでした。耳鳴りは止まり、視界の違和感もなくなり、妙な匂いも感じません。ただただ、私が一人で事故を起こした。その事実だけが後に残されていました。
狭い道路ですから、そんなところにパトカーやらレッカー車やらが来ても仕方がない。なぜかやけに冷静にそのように考えて、車を最寄りのコンビニの端に停めるべく、車を進めました。衝撃でハンドルが壊れているのか、まっすぐに進みません。力を抜くとハンドルが取られて少しずつ右へ右へと進んでいってしまいます。若干左側に力を込めながら、コンビニ目指して進んでいくと、今度は燃料のメーターがとてつもない速さで減っていくのに気がつきました。燃料が漏れているのか、と思いルームミラーで後方を見ますと、油らしきものが点々と私の車の走った後に残されています。コンビニまで自力走行ができるのか、道路で立ち往生してしまいはしないか、気が気ではありませんでした。
どうにか車をコンビニの駐車場に停めますと、私はすぐに警察と保険会社に電話しました。電話に応対した警察官に車体の様子を話すと消防署にも連絡するように言われました。警察や消防が来るのを待つあいだ、私は例の夢のことを思い返していました。私は思い出したのです。あの家は、母方の祖父母の家です。そして壊されていたのは祖母が毎日欠かさずお参りしていて、私も小さい時分から「オイナリサン」と呼んでいた祠でした。小学生の頃には母に連れられてよく遊びに行ったものですが、高校時代を遠く離れた町の学校の寮で暮らすようになったのを皮切りに、それからは東京に出て大学生活を送り、その後の就職も関東でして忙しい毎日を送るようになったため、思えばもう何年もあの場所には行っていないのでした。祖父母はとうに他界しています。家と祠については思い出しましたが、問題は私の左腕を掴んだあの老婦人です。あれは祖母などではありません。いったいだれだったのか…。
数分後、コンビニの駐車場には私の心配したとおり、パトカーや消防車、大型のレッカー車がやって来る騒ぎになりました。そのときには日はすっかり昇っており、普段なら爽やかな筈の早朝の住宅街を赤色灯の明滅するざわついた事故現場にしてしまったのでした。ガムを噛んでいる大柄で中年の男性警察官と、まだ大学を出たばかりと思しき眼鏡で小柄の若い女性警察官が私に状況の説明を求めました。私はパトカーの後部座席に押し込まれて現場に連れ戻され、どの辺りで事故が起こったか簡単な現場検証が行われましたが、一時間もしないうちに「不注意による単独事故」と片づけられて帰宅を許されました。
もちろん、「車内に見知らぬ老婆が出て私の左手を掴んだせいで事故になりました」などと話すわけにも行かず、私は「疲れていてぼおっとしていたのかもしれない」といったようなことを警察官に話しましたので、過労運転に関して通り一遍のお小言を受けました。
それ以上のお咎めがあるでもなく、会社にも「働きすぎだ。以後気をつけろ」と言われただけで、現在では何事もなく過ごしています。左手首の傷は、痣のように多少変色している以外には痛みもなく目立ちもしなくなってきました。右脇腹の傷もすっかり治りましたが、やはり痣のようになっていて、こちらはいまでもハッキリと見えます。事故以来、あの夢は見なくなり私はどうやらあの一連の出来事から解放されたように思われます。
最近の事故に関する私の話はこれで終わりです。
しかし、どう関連があるものか明確にはわかりませんが、その後、気味の悪いことがひとつだけあったので、お話しておきます。叔母が亡くなった、とずいぶん久しぶりに連絡してきた母に聞かされました。叔母は母の妹に当たる人物で、子どもの頃にはよくイトコとともに会いましたが、高校以降はほとんど会っていませんでした。むかしの女性には珍しく、髪を短く切った活発な印象のきれいな女性でしたが、母の妹ですから、現在では還暦は過ぎているはずです。
祖父や祖母が亡くなったときに、残された家や土地などの遺産のことで揉めている、という話は聞いていました。母曰く、「さんざん好き放題して」からツイ先日亡くなったのだそうです。気味が悪い、というのは、亡くなったときの叔母の様子を母から聞いたときに、夢に出てきた人物を思い出したからでした。
叔母は、夭逝した夫に死に別れてから、長年に渡って酒浸りの生活を送っていたそうですが、亡くなる間際に認知症のような状態になったのだそうです。その状況でトラブルになり、警察に保護された後、入院することになった。叔母の子であるイトコたちも散り散りになってまともに連絡の取れない状態で、親族として母のところに連絡が行ったようです。
病室で見た叔母は「見てもだれなのかわからない」ような状態だったそうです。入院着でベッドに寝かされていましたが、面影もなくなるほどに痩せ細り、真っ白になった頭髪はまるで坊主頭のように短く刈り込まれて「猿のようだった」といいます。実際の年齢よりも遥かに歳を取っているように見えたそうです。警察に保護されたときには、認知症の症状がよほど進んでいたのか、四つん這いになり、犬かなにかのように唸り声を上げて手がつけられない状態だった、とも聞かされました。亡くなった叔母は、母を除いて親族もほとんどいないので、葬式もあげずに火葬にしたそうです。
そこまで聞いて、私は一つのことが気にかかり、母に尋ねました。祖父母の家のことです。「叔母さんがまだ元気なときに家を壊して、更地にして、土地は売り払った。お金は全部自分の懐に入れたらしい」と聞かされました。夢に出てきたあの家も、オイナリサンの祠も、もうなくなっている。そこまで聞いて、全身が総毛立ちました。
私の考えすぎかもしれません。
考えすぎかも知れませんが、あの夢に出てきた老婦人は私の叔母だったのではないか。私の記憶している叔母の姿とはまったくちがいますが、年齢は大体合っていますし、母の話ともその姿は符合しています。そうだとすると、叔母は祖父母の家でなにをしていたのでしょうか。土地を売却するために家を壊した叔母は、同時にあの祠も壊した。それによって、キツネに憑かれていたのではないか。「犬かなにかのよう」だったのもそのせいで、その凶暴な状態で私の夢枕に立ったのではないか。私が事故を起こしたその「ツイ先日」に、叔母は亡くなったのではなかったか。
あれが叔母であったとして、どうして何年も会っていない私のもとに急にあらわれたのか、それは私にはわかりません。しかし、私にはモウそれ以上、叔母の亡くなった日や叔母の遺影を確かめる勇気は残っていないというのも事実です。このまま忘れてしまうつもりでしたが、あまりに怖い話だったのでどなたかに聞いていただきたく、お話しました。あの老婆が本当に叔母であったかはともかく、叔母の冥福を祈りつつ、こんなことは早く忘れて、再び事故を起こさないように安全運転を心がけるくらいのことしか私にはできそうにありません。
タングステンさん待ってました!!
さすがの読み応えです。
これは不気味…
叔母さんの顔は確かめないままのほうが良い気がします
素晴らしい。食い入るように読んでしまいました。
最近このサイトでは犯罪などにまつわる少し捻った小説のような話が評価されてることが多かったので、こういったリアリティ溢れる本当の意味での怖い話が読みたかった。
それにしても他の投稿者の方とはレベルが違いますね。
他の投稿も読ませていただきましたがどれもレベルが高くて驚きました。
プロの方でしょうか?
こわいてすね。
夢の下りの部分、どっかで見たことあるんだよな
>夢のくだり
同じタングステンの心さんの過去の投稿「爪跡」ではないでしょうか。
以前の投稿との繋がりが感じられるのも憎い演出ですよね。
THE実話怪談って感じの展開ですな
変に小説染みた感じじゃなくてすんなり読める
そして純粋に面白かった
次回も期待
結構長いのにさらっと読めちゃうのすごい
もう少し時間が経って恐怖が和らいでから叔母様の遺影を確認してみてはいかがでしょうか
ホラーな描写少ないのに何故か凄く怖いと感じた
読んだ人に影響が……なんてないですよね
よく車中泊するんだが!
怖くなったどうしてくれる😠
何時始業かわからないけど、夜中まで仕事して1時間も車運転は、危ないですね。
猫の爪にはバイ菌が多いので、直ぐに消毒しましょう。
大賞にふさわしいですね
おめでとうございます
nice
上手くまとめられていて読み終わった後の恐怖感、満足感がとてもありました。
変に非現実感を出さずに非常にリアルな出来事、描写、繋がりが話としての完成度の高さを感じます。
過労死寸前のあなたを止めたかったのでは…?
読みごたえがあって満足感がありました。
迷惑な叔母だな
独特の語り口が怖さを引き立てますね。
ところどころのカナ表記が夢野久作の作品めいた雰囲気があり、そのせいで「信用できない語り手」をそこはかとなく感じさせるのも面白い。
祠や死骸の描写から、異常現象はコックリさんがトリガーなのは間違いない。
そうすると、叔母さんが死んだことで叔母さんへのまじタタリを終えたコックリさんが、その親族にもプチタタリをして回ってるか。
それとも、生前性悪+まじタタリで変なパワーを手に入れて悪霊化した叔母さんが、イタズラして回ってるか。