疲れたサラリーマンが仕事帰りに起こした交通事故
投稿者:タングステンの心 (9)
左の手首が痛い。
脂汗ではなく冷汗が出てきました。恐る恐る袖口をまくると、左手首にまるでひとの爪のような跡が生傷になっていて、ひりひりと痛みます。寝ぼけて自分でやったのかと思い、あわてて右手の爪を確認してみますが、特に血の跡は残っていませんでした。おかしなこともあるものだと思って、のろのろと車から這い出ようとしました。すると、右の脇腹まで傷になっているらしく、汗を吸った肌着と擦れてひどく痛みます。
自宅に戻ってから洗面所で服を脱いで確認すると、左の手首と右の脇腹が爪で引っ掻いたような傷になっていました。肌着の右脇腹部分には破れも見つかりました。
夢で痩身の老婦人に引っ掻かれたのと同じ部分が奇妙にも傷になっていたのです。ぞっと鳥肌が立ったまま、私はしばらく呆然としているしかありませんでした。
私が交通事故を起こしてしまったのは、それから数日後のことでした。まだ残暑の厳しい頃で、日中はひどく暑い時期でした。それでも夜になればいくぶんか涼しくなって、田舎道に車を走らせていると虫の音が聞こえてきていました。ああ、すっかり秋めいてきたな、などと思ったのを覚えています。
あの日も仕事で遅くなり、職場の駐車場に停めてある自分の車に乗り込んだときにはもう深夜の十二時をとうにまわっていました。虫の声が聞こえてきて、空には星がまたたいています。
私はひとつため息をついてから、車のエンジンをかけました。十五分も車を走らせたでしょうか。ひどい眠気が襲ってきたものですから、しばらくは自分の太ももをつねってみたり、自分の頬を張ったりしておりましたが、到底眠気に勝てそうにありません。目前にコンビニの白々とした明かりが見えたのを幸いにして、駐車場の片隅に車を停めさせてもらいました。
買ってきた冷たい缶コーヒーをぐいと飲んでから、スマホのアラームが15分後に鳴るようにセットして、ハンカチがわりにしているハンドタオルを畳んで目の上に載せて仮眠をとり始めました。
またしても、あの家を夢に見ました。今度は古臭い玄関の引き戸がぴったりと閉じていました。夢のなかの私はどうも気になったらしく、家の側面にまわって、例の石の台座を見に行きました。木片がやはり足下に散らばっています。
祠だ、と直感しました。
神社のミニチュアみたいなのを家に敷地にお祀りしているのを見たことがないでしょうか。ばらばらになった木片に、祠の戸口の格子の形をしているのや、壁に当たる部分だったのやらがあり、いずれも古くなって黒ずんでいました。
夢のなかの私はちょっとためらってから、屈み込んでその木片を手でいくつかどかしました。すると、本当の神社の屋根を小さくしたような瓦の断片も下から出てきました。
オイナリサン。
私はこの家がどこなのかをやっと了解しました。思い出せなかったはずです、なにしろそこは……はっとしました。後ろにひとの気配を感じて。私が屈んだまま首だけで振り向くと、そこにはあの老婦人が寝巻きのままの姿で私を見下ろしています。私はおどろいて尻餅をつき、その場にへたりこみました。ああ、もしかしてこのひとは……
と思ったところで、私はまたわっと言って目を覚ました。一瞬どこかわかりませんでしたが、私はまだ車の中。家まであとたっぷり一時間はかかる国道沿いのコンビニの駐車場です。時計を見ると四時過ぎを指しておりました。真夏の頃ほどはまだ明るくなく、気をつけてみるとうっすらと朝になりかけているかな、というくらいの空の色だったのを記憶しています。アラームにも気づかないくらいにぐっすりと眠り込んでいたものらしく、私は三時間以上眠っていたのでした。
私はまたひとつため息をついて、運転を再開しました。
眠すぎて危険なため、大型のトラックやスポーツタイプの車がやたらに速度を上げて走っている国道で帰るのはよしておくことにしました。途中の信号機でハンドルを切って、細い県道に入ります。
県道は片側一車線の細い道路で、隣の町から私の自宅がある町の駅前まで細々とつづいています。明かりの消えたスーパーやら何やらのあいまに、二十四時間営業のコンビニやら牛丼屋やらの明かりがぽつぽつと思い出したように見えるばかり。車通りはほとんどないので、一車線ではありますが自分のペースで運転してもだれに迷惑をかけることもありません。
コーヒーを飲んでから少し眠ったおかげか、眠気はずいぶん飛んでいました。
私の車は単調な一本道を法定速度で淡々と進んでいきます。自宅のある東の方へずっと車を進めていきますと、東の空の方が段々と白んでくるのに気がつきました。ああ、もうすぐ朝だな、と思いました。
しっかり運転しているつもりでしたが、単調な一本道、ほかの車もまるで見えないような状況で私もいくぶん気が抜けていたのかもしれません。突然のできごとでした。
「うわっ」
と言って私はハンドルを対向車線の方へと反射的に切りました。毛皮の切れ端のようなものに、赤黒いものがべったりとついていて、ところどころ薄桃色のぷりぷりしたのがついた物体が急に視界に入りました。大方、飛ばしすぎた車に轢かれてしまった哀れな猫かなにかの死骸でした。
残念ながら田舎道には珍しくもない光景ですから、平素であれば可哀想には思っても、さしておどろきもしないのですが、その日はいつまでもどきどきと自分の鼓動が速まるのを感じておりました。
それから少し行ったところ、自宅まであと二十分くらいのところだったでしょうか。私は強い違和感を覚えました。どうもうまくことばにはならないのですが、視界が歪んでいるかのような。それが持病の、極端に疲労したときに起こる耳鳴りであることにしばらくして気がつきました。キーンという小さな音、視界がわずかに斜めに傾くような感覚 ― しかし、その日は視覚と聴覚ばかりでなく、嗅覚にまで私は異状を感じていました。これまたどのように正確に表現して良いかわからないのですが、何というか少年漫画の雑誌を開いたときのインクみたいな匂いがツンとする、とでも言えば伝わるでしょうか。
まっすぐに車を走らせようとしても少しずつ斜めに進んでしまうような感覚のもと、右耳はキーンという小さくも鋭い音に塞がれて、車内にはインクのような謎の匂いが充満しています。自宅まで本当にあともう少しというところではあったのですが、とても運転していられる状況ではありません。ああ、これはもうだめだ、どこかに車を止めよう、と思うのですが、あいにく止められそうな場所が見当たらない。営業時間外の広大なスーパーの駐車場には入り口にロープだのチェーンだのが張ってあって進入できませんし、路傍の雑多な商店の店前に止めるのは店主に迷惑がかかる。否、未明の営業時間外なのだし、大目に見てくれるのではないか、といまでこそ思いますが、当時はそこまで頭が働きませんでした。
仕方なく次のコンビニまで車を進めようとしました。明け方の仄暗い、薄ぼんやりとした空を見ているせいでしょうか。そのとき、なぜか無性に先ほどコンビニの駐車場で見た夢を私は思い出していました。見覚えある古い家屋、老婦人、壊されたオイナリサンの祠の跡…。夢のなかでは確かに思い出したはずだったのに、あれはいったいどこで見たのだったか。絶対に知っているはずなのに、喉のところにつかえて出てきません。
斎場のあたりにさしかかったときです。視覚、聴覚、嗅覚につづいて、今度は触覚にまで違和感がある ― 左腕の肘になにか触れている感覚がありました。オヤ何だろう、と思った私は、頭がぐらぐらするなかで車の速度を少し落としてまわりに車が来ないことを確かめてから、目だけで左をちらと見ました。
タングステンさん待ってました!!
さすがの読み応えです。
これは不気味…
叔母さんの顔は確かめないままのほうが良い気がします
素晴らしい。食い入るように読んでしまいました。
最近このサイトでは犯罪などにまつわる少し捻った小説のような話が評価されてることが多かったので、こういったリアリティ溢れる本当の意味での怖い話が読みたかった。
それにしても他の投稿者の方とはレベルが違いますね。
他の投稿も読ませていただきましたがどれもレベルが高くて驚きました。
プロの方でしょうか?
こわいてすね。
夢の下りの部分、どっかで見たことあるんだよな
>夢のくだり
同じタングステンの心さんの過去の投稿「爪跡」ではないでしょうか。
以前の投稿との繋がりが感じられるのも憎い演出ですよね。
THE実話怪談って感じの展開ですな
変に小説染みた感じじゃなくてすんなり読める
そして純粋に面白かった
次回も期待
結構長いのにさらっと読めちゃうのすごい
もう少し時間が経って恐怖が和らいでから叔母様の遺影を確認してみてはいかがでしょうか
ホラーな描写少ないのに何故か凄く怖いと感じた
読んだ人に影響が……なんてないですよね
よく車中泊するんだが!
怖くなったどうしてくれる😠
何時始業かわからないけど、夜中まで仕事して1時間も車運転は、危ないですね。
猫の爪にはバイ菌が多いので、直ぐに消毒しましょう。
大賞にふさわしいですね
おめでとうございます
nice
上手くまとめられていて読み終わった後の恐怖感、満足感がとてもありました。
変に非現実感を出さずに非常にリアルな出来事、描写、繋がりが話としての完成度の高さを感じます。
過労死寸前のあなたを止めたかったのでは…?
読みごたえがあって満足感がありました。
迷惑な叔母だな
独特の語り口が怖さを引き立てますね。
ところどころのカナ表記が夢野久作の作品めいた雰囲気があり、そのせいで「信用できない語り手」をそこはかとなく感じさせるのも面白い。
祠や死骸の描写から、異常現象はコックリさんがトリガーなのは間違いない。
そうすると、叔母さんが死んだことで叔母さんへのまじタタリを終えたコックリさんが、その親族にもプチタタリをして回ってるか。
それとも、生前性悪+まじタタリで変なパワーを手に入れて悪霊化した叔母さんが、イタズラして回ってるか。