駅で取り憑かれた話

だが、その通勤中、俺がホームでいつものように列に並んでいた時に事件は起きた。

ぼーっと電光掲示板を見上げていたんだけど、電車が来るアナウンスの後、急に背中や肩なんかに人がぶつかった衝撃を受けて俺はトットットットといった感じで前のめりに倒れるのを堪えて前進していった。
この時「なんで電車停まってねえのに列詰めてきてんだよ」と別の怒りが沸いていたが、俺の目の前に線路が覗いたせいで一気に血の気が引いた。

「あ、今電車来てんのに落ちたら死ぬじゃん」とか頭に過ったが、体勢的に自力で立ち止まるのが無理だった。

だけど、ホームに落ちそうになってる俺に気付いた列に並ぶ人の何人かが咄嗟に俺の服を掴んで後ろに引っ張り上げてくれたお陰で、俺はホームの黄色い線より内側に尻餅を着く。

助かった。

ポカーンと口を開けていたら、周囲の何人かが「あぶねえだろ！」とか「大丈夫ですか？」なんて声を掛けてくれたが、俺は呆然とその様子を他人事のように見上げる事しか出来なかった。
ただ、すぐに正気に戻れたのか、俺の事を助けてくれて心配してくれている人達に「あ、ありがとうございます」と精一杯頭を下げた。
事態を把握した駅員が飛んできて事情を聞かれたので、俺は一本電車をずらす事になったが、騒ぎを知っている乗客と一緒に乗らずに済んで少しだけ安堵した。
気まずいからな。

一本電車を遅らせる事になり、俺はベンチに座って次の電車を待つ傍ら「いったい誰が俺を押したのか」という事について考えていた。
駅員には言わなかった。
というか、言えなかった。
簡単な聴取だったが、たまたま俺の近くに居た何人かが急に俺がバランスを崩したように前の方にけんけんしていったと証言したからだ。
傍目には俺が飛び込み自殺でもするように引っ張られていくように見えてたんだ。
そんな中で俺だけが「誰かに後ろから押された」なんて言ったら怪訝な目で見られそうだったから言えなかった。

万が一、本当に誰かに押されていたらあの時証言しとけば良かったと後から思い到ったが、どのみち引っ込み思案というか、人前で話す事が苦手な俺にはきっとできなかったと思う。

この話を仕事の合間にＡに話したら「いや、話せよ」と真面目に怒られた。
ただ、俺がここ何日か幽霊を見たと話していた事も考慮して精神的な被害妄想の線もあるから何とも言えないとも零していた。
そのＡの物言いに俺はＡに精神的におかしいと思われているのかと思ってちょっと悲しくなったが、Ａは「一回病院いったら？」と普通に心配してくれたので杞憂だった。

幽霊が見えた。
こういう症状の時って何処の病院に行ったらいいのか分からなかったので、結局何処にもいかなかった。

それなのにその日以降、特に変わった体験はしなかった。
女の幽霊は見なくなったし、誰かに体を押されるような事も無い。
仕事は相変わらず残業ばかりで大変だったが、幽霊騒ぎの不安が解消されたせいか、それなりに体力は余っていた。

ホームでの一件から二週間くらいだろうか。
その日は仕事が終わらなくて残業の後もサービス残業で一人遅くまで居残って仕事をしていて、気が付けば終電間際だったから急いで会社を出た。
まだ会社で寝泊まりを繰り返す程ブラック根性が据わっていない俺は、最終電車に間に合って車内に乗り込むなりゼーゼーと息を整える。
ふと他の乗客の視線が気になって顔を上げるが、どうしてかその車両には俺しか乗っていない事に気が付いた。

いくら終電とは言え、駅周辺には繁華街があるのでそれなりに利用客は居る筈だ。
不思議に思った俺は隣の車両をガラス越しに覗いてみた。
すると普通に一人二人と席にポツンと乗客が居るのを見て、たまたま今日は人が少ないのかと納得して席に着いた。