ふと、上司の視線が気になってその先を追った。
顔面を真っ白にした後輩が自身の耳辺りで手を彷徨わせている。
「…どうしたの?具合悪いの?」
上司は至って平然と、純粋に後輩の体調を伺うように一歩進むが。
後輩は此方の服の裾を掴んだまま一歩下がり、服を掴まれてる此方も一緒に後退した。
「…誰なんスか」
「何が?」
蚊の鳴くような声の後輩と抑揚のない声の上司。
「お…俺だっててっきりアンタの子供が泣いてるんだと…!でも後から話聞いておかしいなって…だってアレは確かに「死んだヤツ」の声だったのに!」
「は?死んだ?何の話をしてるんだソイツは?」
「落ち着け。子供は死んでない、奥さんもまだ捜索中だから…」
「違う!今も聞こえてる!今もその…後ろにいる!!」
後輩は震える手で上司の背後を指差した。
「…まさか、」
「車の中から助かった子じゃない!でもその子はアンタの子だ!死んだアンタの子だ!!」
「ッ待て!それ以上言うな…!!」
「なぁアンタ何したんだ!奥さん何も知らないんスか!?何でその子怒ってるんスか!車から子供が…妹が助かったの、何でこんなに怒ってるんスか!!
アンタ奥さんと後ろの子に何したんだ!!」
「…お前どこまで知ってるんだ?」
ほぼ悲鳴のような声を上げる後輩と制止する此方に投げられた上司の声は、感情も抑揚もストンと滑り落としたような、冷たいものだった。
この直後、自分が何をして上司に何を言ったか記憶が曖昧だ。何せ直前の会話のインパクトが強かった。多分上司と後輩の間に入って、後輩の具合が悪いみたいだから休ませるとか何とか言って、硬直してしまった後輩を引き摺って休憩室に駆け込んだとかそんな感じだと思う。掌がジンと痛いと思えば、後輩の胸倉を掴もうとした上司の手を力任せに叩き落としたらしい。「火事場の馬鹿力っスね」なんて後輩は笑ったが、その血の気の引いた顔は自身の腫れた掌より痛々しかった。
上司は翌日から姿を見せず、数日後に退職した。
奥さん失踪の他にも家庭がごたついてたらしい、今の奥さんとは不倫の末の再婚で、前妻の子が流産で亡くなってて、など断片的な噂は継続して流れてきた。
裁判の噂もあったが、同時に上司本人が失踪したという情報が流れると噂は次第に囁かれなくなっていった。
「君の聞いた声と噂を照らし合わせれば大体の事情は想像つくが…昼ドラのようなストーリー脚本だな」
「ホラー映画っスよ。だいぶ陳腐ですけど」
後輩は1ヶ月後にバイトを辞めた。退職前の上司と言い争っていた事が他の夜間バイトの子たちの間にも広まっていた。
「ま、慣れてるし。こうなるの覚悟でメンチ切ったまであったんで職場に未練は無いっス」
「君に賄いを振る舞えないのは残念だな」
「体験談を聞けなくてでしょ先パイの場合」
「その辺りは縁だから、君の気が向くのを待つさ」
「…ふーん」
「上司のお子さん、実家で引き取られて祖父母の元で暮らすそうだ。今回の件をどう捉えるかは自由だが、君が泣き声を聞いた事で罪ない子の命を救ったという事実は片隅で覚えていてほしい」
「やっぱ先パイ変人ですわ」
「人が神経削って選んだ言葉をコノヤロウ」
「そっすね、その辺はじゃあ覚えときます」

























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