今思い出しても不快になる。ほとほと嫌な体験だ。
私が大学生をしていた頃、長期の休みに際しては親しい友人と旅行するのが何よりの楽しみであった。旅行と言えど貧乏学生が選べる場所は多くなく、観光地から少し離れた寂れた街やコンビニエンスストアを探すのにも骨の折れる山の裾等に足を運んでいた。だがそういった目を引かない場所の魅力を探し出したり、何ら興味を引くものがなければその寂寥とした空気を楽しんだりと、人気観光地では出来ない乙な時間を送るのを私や友人達は好んでいた。
ある春の事である。休暇を与えられた私と一人の友人(A)は、例に漏れずある離島へ旅行に出掛けた。飛行機代がやや嵩んだが、ある程度観光地が存在し、それらを巡るだけでも二日は退屈せずに済みそうだった。
日がな島を歩き、夕方に差し掛かった頃、押さえていたホテルに向かった。着いてみると、どうやら有名チェーンが手掛けたホテルで、オープンしてから数ヶ月しか経っていない様子である。中は白を基調とした綺麗な装いであり、少しだけ薄暗い印象を受けたが、私とAは値段と比べかなり上等な部屋に色めき立った。
夜になり、昼間に買ってきた地酒を二人で少しだけ呑んだ後、翌日に備え寝ることにした。私が先にシャワーを浴び、次にAがシャワーを浴びにいった。私は次の日の計画を立てるべく携帯電話にてその島の観光地について調べていた。ベッドに寝転がっており、酒が入っていたこともあってかうつらうつらしていた。
水の溢れる音で目が覚める。ふと時計を見ると、Aが浴室に入ってから20分は経過していた。浴槽からお湯が溢れていると思しき音に少し違和感を抱き、ベッドの上から声を掛けた。
「おーい、大丈夫か?のぼせてねぇか?」
「………」
返事がない。
おかしいな?と思いつつもう一度声を掛けようとした時、
「ン…ウウーーーーンン」
妙にくぐもった、しかし極めて一定の高さのその声は、何かの鳴き声の様にも聞こえた。
なんだ?今の声は?
気持ち悪く思いつつも、悪酔いしたAが寝ぼけて返事をしたのかもしれない。であれば濡れた浴室は危険であるため、介抱しようと浴室のドアをノックした。
コォン コォン
返事がない。寝てしまっているのかと思いドアを開けると、Aはお湯の溢れた浴槽の中で
体育座りをして、
俯き、顔をお湯に沈め、微動だにしていなかった。
「Aッ!!」
急いで顔を上げ呼吸を確認する。息をしていない。
急いで体を引き上げ、びしょびしょになりながら見よう見まねの心肺マッサージを行う。幸いAは数分後に息を吹き返した。
念の為に翌日行った病院では、脳梗塞の疑いがあるとされたが、精密検査の結果問題は無いことが分かった。
Aに浴室にて何があったのか聞いたが、体を洗い浴槽に浸かっていると急に眠くなり、気づいたら鬼の様な形相をした私に叩き起こされたとの事だった。また、浴室の中で、一切外から声を掛けられた覚えはないと言う。
であれば、私の声掛けに返事したあの声は一体誰が発したのか。また健康体のAはなぜ急に気を失ったのか。
私が気付かなければどうなっていたか…
後ほどそのホテルについて調べたが、特に曰くは確認できなかった。
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