三年前から、左手が先に動くようになった。
何かを書こうとすると、右手がペンを持つより一瞬早く、左手が動く。私は左利きではない。字を書くのも、箸を持つのも、ずっと右だ。なのに左手が、何かを確かめるように机を這う。気づいた時には止まっている。
最初は疲れのせいだと思った。
きっかけは思い当たらない。強いて言えば、その少し前から、夜中に目が覚めるようになっていた。時計を見ると決まって午前二時台で、目が覚めた理由がわからない。
夢を見ていた気配はある。だが内容は残っていない。残るのは、どこか遠いところから引き剥がされたような感覚だけだ。帰りたい、と思う。どこへとは言えない。その感覚だけが朝まで続く。
左手の癖と、夜中に目が覚めることは、同じ時期に始まった。関係があるのかどうか、今もわからない。
一年ほど経ったころ、職場が変わって引っ越した。
新居は築三十年のマンションで、前の住人が長く住んでいたらしく、壁に家具の跡が残っていた。入居前にクリーニングは入っていたが、本棚を置いた壁だけ、他より少し白かった。日焼けしていない部分がそのまま残っていた。
荷解きを終えた夜、左手が動いた。
眠れなくて明かりをつけたまま横になっていた時のことだ。左手が、枕元の手帳を引き寄せた。気づいた時には手帳が開いていて、左手がページの上にあった。私は右手でそれを閉じ、引き出しにしまった。
翌朝、手帳を出した。
開くと、見覚えのない字が並んでいた。
私の字ではなかった。少なくとも、右手で書く私の字ではなかった。細く、角張った、知らない筆跡だった。書いてあったのは日本語だったが、続けて読もうとすると目が滑った。単語は拾えるのに、文として繋がらない。「まだ」「ちがう」「もどして」「きこえる」、そういう言葉が、脈絡なく並んでいた。
最後の数行だけ、文字が崩れていた。
文字というより、紙を引っかいた跡に見えた。その下に、知らない記号のような文字列があった。どの言語とも合わない。ただ、行の終わりだけがすべて同じ形でそろっていた。
私は手帳を閉じ、ゴミ袋に入れた。
その夜から、左手は動かなくなった。
二週間ほど経ったある朝、枕元に置いていたメモ帳が開いていた。白紙だった。だが指でなぞると、紙が凹んでいる箇所があった。強い筆圧で何かを書いた跡だ。どのページにも、同じような跡があった。
私は鉛筆を寝かせてページをこすった。
浮かんだのは、手帳に書かれていたものと同じ種類の文字だった。読めない。形だけがある。
その日以来、目が覚めると枕元のものが動いている。メモ帳が開いている。ペンのキャップが外れている。ノートが床に落ちている。何も書かれていないが、紙には必ず跡がある。
左手はもう動かない。
代わりに、朝起きると右手の人差し指と中指の腹が、少し擦れている。何かを長く書き続けた後みたいに。
これを投稿したら、画面を閉じようと思う。
閉じた後、左手がどこへ向かうのか、まだわからない。

























志那羽岩子です。きまって午前二時に目が覚めるのは何か意味があるのでしょうか。