ある男性から聞いた話。
彼は仕事一筋だった。家庭を顧みることなく休日返上で接待や出張へ赴き、会社の期待に応え続けた。努力が実り、同期よりも頭ひとつ抜けて出世し部長のポストについた。
こう書けば多少見栄えはよいが、そんなに大層な話ではない。家族のため…いつだったかは思い出せないが、そう邁進していた時期もある。だが時は流れ、生活のすれ違いで日増しに距離が遠くなる妻。そして今や殆ど口をきかなくなった中3の一人息子。そんな家庭に居場所を見出せず仕事へ逃げ続けたら、こうなっただけだ。
彼は一度、過労がもとで不整脈を発症し、その都合で食後にカプセル錠を服用している。自宅では気を抜いているせいか飲むのを忘れるため、夕食後に妻へ薬を用意するよう言いつけてある。だがそれも最近は声をかけないと出てこなくなった。
おい、薬。
返事の代わりに、背後から水の入ったコップと2種類のカプセル錠がやって来る。言われる前に出せないのかと詰めると、
「あーごめんなさいね、最近忘れっぽくて」
こんな調子で流される。妻はとぼけるとき首の辺りを触る癖がある。いま首を触ったのは、わざと言われるまで薬を出さなかったということのようだ。
ある日、会社の健康診断で受けた内視鏡検査に引っかかった。内視鏡はオプションだったが、役員がこれでポリープを見つけたとのことで、話のネタにと申し込んだものだった。『要精密検査』と書かれた診断結果を手に近所の病院にかかると、医者から思いもよらない言葉をかけられた。
「緊急手術です」
あれよあれよと言う間に手術台に寝かされ、麻酔を打たれ、次に目が開いたときは病室で横たわっていた。執刀医によれば、彼は重度の内出血を患っていた。青タンのような可愛いものではなく、内臓の至るところに穴が空き、身体の内側に血液が滲み出していたらしい。一切の自覚症状がなかったのは、人間なのか疑わしいレベルのタフネスだとまで言われた。そんなわけで、別の病の可能性も加味して療養と経過観測を行うことになった。
長期入院になれば自分の仕事が無くなってしまう…焦りから来る意地なのか、見舞いに来ていた妻には強がっていた。内臓に穴が空いていようと平気だった。俺は頑丈だな、まだまだやれる…妻から返ってきたのは、感情のないため息だった。
「ほんっと、鈍感」
穏やか、だがその響きは男性を黙らせる冷たさを孕んでいた。妻は男性の着替えを膝の上で畳みながら、目も合わせず続ける。
「貴方、勝手に薬が増えてもおかしいとか思わないの?出されたモノをなんにも考えないで飲み込んで。かと思えば、口から出るのは仕事仕事って。頭おかしいわ」
驚愕した。全く気づかなかった。そうだ、医者から出された不整脈の薬は確か1種類だけ。薬が2種類になるのは妻が用意するときだけだ。それでも衝動的に口から出るのは、男の下らないプライドだった。
寝込んでいる夫に向かって何だその言い草は。
後半には妻の呟きが重なった。
「なるほどね、こういう効き方するのね、これ」
妻はカバンから薬瓶を出した。中身はいつぞやから飲んでいたそれだった。待て、『こういう効き方』とはどういうことだ。効能が不明なモノを飲ませた…?
おい、それ何の薬なんだよ。
急に湧いた嫌な汗で背中一面を濡らしながら、彼は尋ねた。
「…ただのビタミン剤よ」
蝿でも払うような言い方だった。妻はとぼけるとき首の辺りを触る癖がある。いま首を触ったのは、どう解釈すればいいのだろうか。その後は重く乾いた沈黙が続いた。
術後の経過は順調で、幸いにも他の病気が見つかることもなく彼は予定より早めに退院した。彼が飲まねばならない薬の量は増えた。朝と夕食後の粉薬ひと袋、毎食後の錠剤2種類、加えて夕食後のみの錠剤1種類。やや複雑になったが妻に薬を用意させるようなことはもうしていない。その甲斐あってあのビタミン剤とやらも見なくなった。また、あの一件からは自分に対する妻や息子の些細な変化が気になって仕方なくなり、家族の会話は少し増えたそうだ。
最後に、あの薬はいったい何だったのかと彼へ尋ねると
「分かりません、ただ私はもうそれを知る必要はありません」
とだけ述べ、語りを終えた。























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