これは今から三十五年前の、私が小学五年生の夏に、ある習い事の合宿に参加した時の話です。
私は、その習い事が嫌いだったので、
その場所が、私が住んでいる兵庫県尼崎市から、観光用のバスで三時間ほどの、人里離れた山の中にあると言う事しか覚えていないのですが、
私達が合宿をするその場所は、木々に囲まれた広い敷地に、八角形の形をした二階建ての大きな建物が建てられていて、
その敷地のすぐそばに、水のきれいな涼しげな川が流れていました。
強い日差しの中、周囲の木々の間から、大量のセミの鳴き声が響きわたっていて、
その日のお昼前に到着した私達は、すぐにでも、涼しい場所で休みたいと思っていたのですが、
不思議な事に、どこを探し回っても、その建物の入り口を見つける事ができませんでした。
そんな大きな建物の一階の一つの部屋の、雨戸が閉ざされたままになっていて、
私達は、その部屋から建物の中に入る事ができるかも知れないと思いながら、その雨戸を、なかば強引に押し開けてみたのですが、
そんな開け放たれたその部屋の広い床の一面が、足の踏み場もないほどの、大量のセミの屍骸で埋め尽くされていました。
そんな異様な光景に、私の周りにいる人達が、悲鳴をあげていたのですが、
そんな大量のセミの屍骸を、
その習い事の指導者の四十代の男性と、会長の五十代の男性と、その合宿に参加していた、酒屋のHくんのお母さんと、数名の保護者の人達が協力しながら、
箒で、一つ残らず掃き出してしまいました。
ただ、その建物のその部屋以外の場所に異常はなく、その建物が管理されていないと言う訳でも無いのですが、
私達の宿泊するその部屋は、二十人分の布団が敷けるほどの広さになっていて、その部屋の中央の部分が、二階の屋根の所まで、吹き抜けになっていました。
その建物の二階の部分は、格子状の柵に覆われた、細長い通路になっていて、そんな通路が、建物の壁沿いに貼り付いているような構造になっていました。
私をふくめた十名ほどの男の子が、その場所で寝る事になったのですが、
そんな細長い通路の壁ぎわの足元に、窓ガラスも網戸も無い、高さが20センチ、横幅が45センチほどの、細長い窓がついていて、
その窓から、敷地のそばを流れる、薄暗い川が見えていました。
私達がその日のお昼ごろに訪れたその川は、鬱蒼とした木々に囲まれた、なんだか薄気味悪い場所で、
そんな川原の石垣に、暗くて地味な青色の、10センチほどのウシガエルが、張り付いていました。
蛙に悪霊が憑りつくという話をどこかで聞いたのは、私が大人になってからの事なのですが、
そんな私の目の前にいるウシガエルが、鳴くことも、その場から逃げ出すことも無く、焦点の合わないその目で、私を静かに見つめていました。
それは、夜の八時頃の事でした。
にぎやかな話し声が響き渡る中、
同級生のMくんが、薄暗い二階の狭いスペースの、壁際に敷かれた布団の上に、横たわりながら、目の前の細長い窓の外を見つめていて、
そんなMくんに、同級生のNくんが、大きな声で「さっきから、一人で何を見てんねん」と声をかけました。
Mくんは、その呼びかけに振り返る事も無く、窓の外を見つめたまま、感情の無い小さな声で「さっきから…川の中に、女の人の顔が浮かんでるねん…」とつぶやきました。
その途端、私達は言葉を失ってしまったのですが、そんな不穏な空気を打ち破るように、
Nくんが勢いよく「何言ってんねん」と言いながら、Mくんを押しのけるように、その窓を覗き込みました。
その窓に顔を近づけたNくんが、驚きながら「ほんまや…右目の上にコブのある女の人の顔が、ハッキリと見える」と叫びました。
私も、その窓の外を覗いてみたいと思っていたのですが、
その頃の私はとても怖がりで、幽霊や妖怪などに興味はあるものの、本物の幽霊を見る勇気はありませんでした。
なので本来なら、その窓を覗くことは無いのですが、
私は、二人に促されるままに、そして何かに引き寄せられるように、その窓を覗き込みました。
その窓の外には、
暗闇に包まれた黒々とした林が広がっていて、その林の手前を横切るように、わずかな光に照らされた、流れのゆるやかな川が流れていました。
かすかに青白く光るその川が、私の右手の方から左に向かって流れていて、
そんな川の真ん中に、ぼんやりと白く光る、綿のような、煙のような、雲のような、不思議な物が浮かんでいました。
その雲は、西遊記に出てくるキントウンのような形をしていて、尻尾の部分を川下に、前方を川上に向けながら、
まるで生き物のように、絶えずその形を変えながら、水の上を漂っていました。
そんな白い雲の表面に、まるで絵の具で描いたような、ぼんやりとした、おかめのお面のような女性の顔がついて、
川下にあごを、川上に額を向けた、その顔の右目の上に、ピンク色の丸いコブがついていました。
そんな女性の顔が、誰もいない川の中で、恥ずかしそうにほほ笑みながら、ゆっくりと川下に向かって流されていていきました。
顔だけの幽霊は、そのまま一メートルほど流されると、突然、驚いたような顔をして、
白く光る雲の部分を何度も伸縮させながら、川の流れに逆らって、元の位置まで戻って行きました。
その姿は、まるで、泡に包まれた大きなカエルが、慌てながら泳いでいるような、そんな姿に見えたのですが、
顔だけの幽霊は元の位置までたどりつくと、再び、恥ずかしそうに微笑むのですが、しばらくすると、先ほどと同じように、ゆっくりと流されて行きました。
その幽霊は、同じ場所で同じことを何度も繰り返しているだけなのですが、
私はその恐怖に耐えられず、窓からそっと離れました。
Mくんは、そんな私に静かな声で「なっ、言った通りやろ」と声をかけると、再び布団に寝転がり、再び、窓の外を見つめました。
消灯の時間になってもMくんは窓の外を見つめていて、
私は灯りの消えたその場所で、暗闇を漂う、顔だけの幽霊の姿を思い浮かべながら、なかなか眠りにつくことが出来なかったのですが、
その女性の幽霊が私達の所に現れる事も無く、次の日の朝になるとMくんも、いつものMくんに戻っていました。
その日は朝から、合宿に参加している全員で、その川にスイカを冷やしに出かけたのですが、
その川の周辺に特に変わった様子は無く、
その川に幽霊が現れた痕跡や、怪異の原因になりそうな、妖しい物を見つける事はできませんでした。
その後、私達がその合宿場で、不思議な体験をする事も、幽霊を見る事も無かったのですが、
その合宿に参加していた数人の女の子達が、その合宿場の敷地の中で不思議な体験をしていたそうで、
彼女達が、敷地の中を散歩していると、
どこからともなく見知らぬ老婆が現れて、ものすごいけんまくで「お前達、今すぐここから出ていけ!」と怒鳴りつけたそうです。
老婆はそう言うと、彼女達の目の前から忽然と姿を消したそうなのですが、
彼女達はそんな話を、とても暗い表情で、私達に教えてくれました。
























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