この話の真意を知ったのは高校生の時だった。
がんのため、病院で闘病生活を送っていた祖父が亡くなった。
曽祖父の時もそうだったが、当時、私の故郷では葬儀は自宅で行うのが通例で、セレモニーホールを使うところなんかはほとんどなかった。
弔問に訪れてもお悔やみを伝え、悲しむのもそこそこに式の準備に取り掛かる。
私は親戚が来ても、あまり顔を見せたりする柄ではなかったのだが、外で顔を合わせた時にあいさつをする程度の関係でしかない人まで、本当に大勢の方が集まっていた。
女性の方は、お供え物や葬儀のあとのお食事の支度をし、男性は家の内外の飾りつけを担当する。
曽祖父の時は、襖が取り払われ、家の端から端まで長テーブルが用意されて、さながら旅館の宴会のような雰囲気だったのを覚えている。
しかし、私の頭は疑問で溢れかえっていた。
祖父が亡くなったというのに、家の中はまるでお祭りのように賑やかなのだ。
悲しみと感じられる要素は微塵もない。
しかも私は祖父が亡くなる直前に面会に訪れていた。
その帰り道で父から亡くなったとの連絡が入り、正直、かなりのショックを受けていたのだ。
二階の自室で悲しみに暮れている中、私の気持ちとは真逆に、一階からは慌ただしく歩き回る音や、大きな声が響いていて、苛立ちすら覚えるほどだった。
そのうちにお前も何か手伝えと父に促され、叔母の手伝いをすることになり、そこで私は叔母に尋ねてみた。
なぜ、自分たちで葬儀の支度をするのか。
なぜ、近しい関係でもない人まで集まっているのか。
その時の疑問を全てぶつけてみたのだ。
私の故郷では度々、冷害に悩まされることがあり、飢饉が訪れ大変な暮らしをしてきたそうだ。
日々、食べるものに困っていて、家族・親戚関係なく、地域の人たちが食べ物を分け合い、子供の面倒を見たりと、本当に手を取り合って生きてきた。
食わず嫌いがひどかった私に、終戦の翌年に生まれた父から
「俺が小さいころは本当に食べるものが無くて大変だった。大根の種を植えたばかりの畝を見ながら、ばあさんに何時になったら食べられるか聞いたら、そんなに早くできるかバカたれって怒られたもんだ。」
なんて話を何度も聞かされていたのを思い出す。
共に生きてきたのだから、亡くなった時も少しでも豪華に明るく、みんなで送ってあげたい。
葬儀がこれだけ賑やかに行われるのには、そういった辛い過去を共に過ごした故人に対する想いがあるのだそうだ。
私の疑問も晴れ、目の前の光景に納得し始めた時、叔母はさらに話を続ける。
「あんたはこの辺で誰かが亡くなった時に、連れていかれるから危ない事をするなって言われたことないか?」
すぐに祖母から聞かされた話を思い出した。
叔母は次のように話し始めた。
辛い時代をみんなで手を取り合って生きてきた。
そして喜びも分かち合ってきた。
ずっと一緒に過ごし、強い絆で結ばれている。

























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