俺はある管理会社で働いています。
去年の春、都内某所にあるワンルームマンションの担当になりました。それから暫くして、三階の住人から電話が掛かってきました。
「隣の人の音を何とかしてくれませんか?」
電話の主は305号室を借りているAさんで、306号室に住む男性が出す、非常識な騒音に悩まされているのだそうです。
騒音主は無職の中年男性のようで、一日中部屋にひきこもり、「ガタンッ!」「ゴトンッ!」とうるさい音を立て、Aさんを苦しめていました。
問題をさらにややこしくしているのは、Aさんが聴覚過敏を患っていたことです。
これは鬱病のストレスが原因で引き起こされる症状で、306号室の音に怯えるあまり、寝る時までノイズキャンセリング付きヘッドホンを装着して生活しているとAさんは訴えました。
俺は早速306号室の男性……Bさんに電話やメールをし、「周囲の部屋の方が物音に迷惑しているので気を付けてください」と、できるだけやんわり注意しました。
これで問題が解決すればよかったのですが、案の定Bさんは「変な言いがかりを付けるな、俺は普通に暮らしてるだけだ!」と激怒し、隣のAさんの方が頭がおかしいと開き直りました。
306号室の騒音……というか、Aさんへの嫌がらせがエスカレートしたのはそれからです。
Aさんが管理会社に相談した……下世話な言い方をすれば「チクった」ことが気に入らなかったのでしょうか、Bさんは一日中大声で叫んだり壁を殴る蹴るして、Aさんを脅かし始めました。
深夜3時頃、わざわざベランダに出てどこかに電話を掛けたりもします。
大音量でAVを掛けるなどの嫌がらせも日常茶飯事で、鬱病で休職中の上実家と疎遠で逃げ場のないAさんは、日に日に精神のバランスを崩していきました。
ある日のこと。
エントランスに下りて郵便物を回収しようとしたAさんは、郵便受けに放り込まれた、大量の使用済みティッシュにぎょっとしました。
すぐに隣人の奇行が思い浮かんだものの、証拠もないのに警察に行くのは憚られます。
最もまずかったのは、完全にパニックに陥ったAさんが、証拠品となるティッシュを全部処分してしまったことです。これではDNA検査による犯人特定は不可能でした。
「引っ越したくても貯金がないし……実家の親とは険悪で、頼れる友達もいないんです。もうどうしたらいいか」
俺としては警察への相談を勧める以外にできることがありません。前提として騒音トラブルは住人間での解決を推奨している為、線引きが難しいのです。
Aさん自身、「警察のお世話になるのはちょっと……」と渋っていました。
数年前にストーカー被害に遭った際、警察で無神経な質問をされ、それがトラウマになっているのだそうです。彼女は多くを語りませんでしたが、鬱病もその経験に起因するのかもしれません。
最後に電話を掛けてきた時、Aさんは優柔不断な俺に向け、憔悴しきった声でこう言いました。
「お願いします、助けてください。あなたしか頼れる人がいないんです」
「ごめんなさい、これが限界なんです」
「私が死ぬか殺されるかしなきゃ動いてくれないんですか?」
「どうかご理解ください、こちらとしてもできるだけの事はしました」
するとAさんは「そうですか……」と呟き、幻滅した様子で電話を切りました。
俺の頭を悩ませていた騒音トラブルは、四か月後に意外な形で片付きました。
「もしもし……えっ、306号室の人が?」
なんでもBさんはコンビニに行った帰りに交通事故に遭い、頭を強く打って病院に運ばれたそうです。
黄色信号の横断歩道を渡ろうとした際、向こうから走って来たトラックに轢かれたというのがその内容。
Bさんを轢いたトラック運転手は、銀色の何かがぴかっと光って、そのせいでハンドルを切り損ねたのだと主張しました。






















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