私は運のいい男だ。
大した大学も出ていないのに、そこそこ大きな会社に就職して、頭のいい綺麗な妻と、可愛い娘に恵まれた。
両親との仲も良好で、大きな悩みもない。友人に困ったこともない。
私は運がいいのだ。
子どもの頃、兄とよく蝉取りをした。
家の前には大人の胸ほどの深さの用水が流れており、その先には近所のおじさんが管理する畑があった。
ただの木の板を渡しただけの簡単な橋を使い、私たちは畑を抜けて林へ向かった。
もちろん他人の畑に勝手に入っていたわけだが、親もおじさんも咎めることはなかった。
その日も私と兄は、いつものように人ひとり分の幅しかない板の橋を渡っていた。
何を思ったのか、私は途中で振り返り、虫捕り網を水平に持ったまま体を半回転させた。
柄が兄の足を掬い、隣で大きな水音が響いた。
濁流に呑まれかけた兄は、必死に淵の雑草にしがみつき叫んでいた。
「誰か!! 呼んで来い!!!」
何度も繰り返す声。けれど私は、目を離せば兄が流される気がして動けなかった。
「早く!!!!」
それでも私は動けなかった。
そこへ細道に車が入ってきた。父の帰宅だった。
私を不審に思った父は駐車もせず車を飛び降り、状況を察すると兄を引き上げた。
「何してるんだ、早く呼びに行けよ」
兄はそう言って私を小突いた。
蝉取りは中断し、家へ戻ると母と幼い妹が出迎えた。
濡れ鼠の兄を見て、母は笑った。
私は運のいい男だ。
もし、あの場所に蔓草が生えていなければ。
もし、兄の体力が足りなければ。
もし、父があの時帰ってこなかったら――。
母が笑うことも、きっとなかっただろう。
そんな夢を見る。
今年で、娘は兄と同い年になる。


























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