あれほど近付けなかった彼が、す〜っと私の元に流れてきたのだ。
良かった! これで助かる!
彼の腕が、私に向かって伸びる。
私も手を伸ばす。
二人の手が触れようとした瞬間。
私は、見た。
彼の、顔を。
暗い穴だけになった、彼の両眼を。
その穴の中の闇に潜む、小さな瞳を。
私は息を飲む。
私が触れた瞬間。
彼の腕を抱き寄せた瞬間。
気付いた。思い出した。
…その腕はあの、幼い頃のあの時のこの海での。
過去の私の記憶の中にある『彼』の。
力強いあの腕の…、
その…、
そのグローブのようにふやけたその腕が、肩の根元からズボリと抜け落ちた。
私が伸ばした手は、そのまま指先から『彼』の身体にズブリと埋まる。
目の前の僅か数センチの距離で、
『彼』の姿を、
私は凝視した。
腐敗ガスで膨張し触れれば崩れる程に腐敗した全身は白く石鹸のように脆く、その、皮膚の剥がれ落ちた腕には藻屑が覆い、肌を食い破るフナムシの群は腐った内臓を餌にして、あの、腐敗の進んだ無残に膨らむ彼の、嫌、顔面の髪は全て抜け落ちて肉の隙間から白い頭蓋骨が覗いている。
腐り落ちた二つの瞳の中で蠢く蟹の群。その幾数個の小さな瞳の塊が、私をじっと見ていた。
言葉を失い、息する事すら忘れ、私は海の中で立ち竦む。
その時。
グラリ。
『彼』が、動いた。
長い時間を海水に曝されて半ば腐液と化した『彼』の身体が腰からポキリと折れて、私に向かって倒れ込む。
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