大学を卒業し、就職したばかりの僕は、昔ながらの商店街にある安アパートに引っ越してきた。隣の部屋には、小さな子供を連れた夫婦が住んでいる。ご主人はいつも笑顔で、奥さんはおっとりした優しい雰囲気だ。僕が引っ越しの挨拶に行くと、奥さんが手作りの煮物を差し入れてくれた。
「よかったら、夕食にでもどうぞ。うち、おばあちゃんの代から受け継いでる味なの」
「すごくおいしかったです。ありがとうございました」
すると奥さんは、嬉しそうに目を細めて言った。
「あら、よかったわ。この味、家族にしかわからないってよく言われるの」
その言葉に、僕は少しだけ背筋が寒くなった。
「もうすぐ、この味も食べられなくなっちゃうのよね……。寂しいわ」
僕は遠慮なくそれを受け取り、その日の晩、温めて食べてみた。一口食べると、なんとも言えない複雑な味がした。甘くも辛くもない、どこか懐かしいような、それでいてひどく不気味な味がする。だが、まずくはなかった。僕は完食し、後日、奥さんにお礼を言った。
それから、奥さんから食事のおすそ分けをもらうことが増えた。一人暮らしの僕を気遣ってくれているのだろうと、最初は純粋に感謝していた。しかし、僕は次第に、奥さんの様子が少しずつおかしいことに気づき始める。
ある日のこと、奥さんがおすそ分けを持ってきてくれた。いつものように受け取ると、奥さんは僕の顔をじっと見つめ、寂しそうに呟いた。
その日の食事は、いつもより味が濃く、不気味さが増していた。僕は食べ進めるうちに、吐き気をもよおし、残してしまった。
翌日、アパートの廊下で奥さんとすれ違う。奥さんは僕を一瞥すると、すぐに目をそらし、足早に立ち去ってしまった。まるで、僕が何か悪いことをしたかのような態度だった。
その日から、奥さんからの差し入れは途絶えた。そして、代わりに聞こえてくるようになったのは、隣の部屋からの妙な物音だった。夜中に聞こえる、何かを引きずるような音。それに加えて、時折聞こえる、低い話し声のようなもの。しかし、言葉としては聞き取れない。
それから、僕は奥さんの視線を感じるようになった。アパートの廊下ですれ違う時、洗濯物を干している時、ゴミ捨て場に行く時。いつ見ても、奥さんは僕の方を見ていた。しかし、目が合うとすぐにそらす。
物音はしばらく続き、僕の神経をじわじわとすり減らしていった。ある日、僕は意を決して、隣の奥さんに声をかけてみた。
「最近、夜中に物音がするんですけど…」
しかし、奥さんは怪訝な顔をして首を傾げた。
「物音? いいえ、何も聞こえませんわ」
そうですか…と僕は立ち去った。
ある晩、いつものように物音が聞こえてきた。僕は怖くて眠れず、じっと天井を見つめていた。すると、突然ドアをノックする音がした。恐る恐るドアを開けると、そこには奥さんが立っていた。
奥さんは何も言わず、ただ僕を見つめている。その目は、以前のような優しい雰囲気はなく、何か強い意志のようなものが宿っているように見えた。
「あの…何か?」
僕が尋ねると、奥さんはゆっくりと口を開いた。
「あなたも、私たちの家族になりませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、僕は全身の血の気が引くのを感じた。奥さんの顔が、微笑んでいるように見えたが、それは歪んでいて、ひどく恐ろしい笑顔だった。
「これで、あなたも家族よ…」
次に意識が戻った時、僕は知らない部屋にいた。手足は拘束され、口には猿轡が嵌められている。部屋の隅には、奥さんと、以前見たことのあるご主人、そして子供が立っていた。彼らは皆、僕と同じように拘束されている。
奥さんは僕を見て、優しく微笑んだ。
「ようこそ、新しい家族」





















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