Nさんは山登りを趣味にしていた。その日曜日も隣県の登山コースに1人でやってきた。初めて登る山だが、ありふれた登山道で天気も良く不安はない。
Nさんは順調に歩みを進めていたが、山の中腹に差し掛かったあたりで急に霧が立ち込めた。あれ、天気予報では霧が出るなんて言ってなかったのに、と不思議に思う間にも霧はどんどん濃くなり1メートル先も視認できないほどになった。
このままでは歩みを進めることはできないと立ち往生していると、霧の中からすっと人影が現れた。Nさんは一瞬ギョッとしたが、現れたのは快活そうな笑みを浮かべた30歳ほどの男性で、いかにも山になれた人間のようによく日焼けしている。
その男性は快活な笑みを浮かべたまま、「いやー、困りましたね」とNさんに話しかける。「でも、僕この山慣れてるんです。よかったら先導してあげますよ」とNさんに手を差し伸べる。Nさんはこの人が連れて行ってくれるのなら安心だ、と思いその手を取ると、男性はNさんと手を繋いだまま少し先を歩き出す。そして「僕、慣れているんです。安心してください。」としきりにNさんに話しかける。Nさんはその声を聞くとなぜかすっかり安心してしまい、男性の先導に身を任せる。男性は同じ調子で繰り返し「僕、慣れているんです。安心してください。」と声をかける。Nさんは安心しきって男性が手を引くままについていく。霧の中では時間感覚も狂うのか、それから長い距離を歩いたような、数分しか歩いていないような、曖昧な感覚の中で、男性が「もうすぐですよ」とささやく。Nさんが男性の導くままに足を踏み出そうとした時、ビュッと強い風が吹いて霧が晴れ太陽が差した。それとともに後ろから「危ない!」と声が上がる。
Nさんがはっとして振り返ると同時に男性の握る右手が強く引かれ、Nさんはバランスを崩してその場に倒れた。手をついて体を起こそうとしてハッと恐怖に身がすくんだ。Nさんの倒れた場所、その一歩先は深い谷になっていて、滑落すればどう見ても無事にはすまない。そしてさっきまで手を引いていた男性は、谷底にもどこにもその姿はなかった。
Nさんの元に5、6人の登山客のグループが駆け寄る。そして、「危ないところでした。霧の中で無闇に歩き回ってはダメですよ」とたしなめるが、Nさんは今まで自分は何に手を引かれていたのだろう、と呆然としていた。
下山したNさんが後日調べたところ、その山では年間2,3人が霧が原因と思われる滑落事故で命を落としているそうである。
























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