私の祖父の弟、つまり大叔父にあたる人は昔猟師をしていたらしい。左目に眼帯をしているのだが、その目も猟の際の事故で失ったと聞いていた。
家が近所でよくうちを訪ねてくれるのだが、ある日、ほかの家族が席を外し二人だけになった時、私が高校で登山部に入ったと話すと、大叔父は山には決して立ち入ってはいけない場所があるから気をつけろ、と話し始めた。
大叔父は山のふもとの家と山小屋を行き来しながら、農業と狩猟で生計を立てていた。ある日雑誌記者を名乗るYという男から、猟師の生活を記事にしたいから取材させてほしいと電話がかかってきた。その日は山小屋にいるから訪ねてくれば良いと返すと、約束の日の朝、山小屋の扉をトントン、とノックし「Yです、お世話になります!」と大きな声が響いた。大叔父が扉を開けると、眼鏡をかけ、カメラを首にかけてリュックサックを背負った30代の男が改めて「Yです、お世話になります」と名乗る。大叔父も挨拶を返すとYは頭を下げたが、顔を上げると少し不思議そうな顔をしている。どうしたのかと聞くと、Yが、「さっきの自分の声が聞こえた気がして。こんな森の中でも、こだまって響くんですね。」と。Yのいう通り、こだまの響くような場所ではないので大叔父も不思議に思ったが、山の中でやたら大声を出すものではない、という猟師仲間でのしきたりを伝えると、Yは神妙そうにしていた。
その後、大叔父が前日に仕掛けた罠を回収するのにYも同行していたのだが、それが一通り終わり山小屋で昼食を食べていると、Yが「実は」と切り出した。「実は自分はオカルト関係の記事も書いていて、是非この山の禁足地も取材させてほしい」とのこと。確かに言い伝えで、この山には立ち入ってはいけない領域があり、そこには祠に山の神が祭られているという。大叔父は特に信心深い方ではなかったが、言い伝えを破って禁足地に入ることには抵抗があった。しかしYがしきりに頭を下げ、謝礼も出すとのことなので写真を撮るだけならと思い、Yを連れて行ってやることにした。
遠目にも見える大きな岩がその祠の目印であり、大叔父も立ち入るのは初めてだったが、けもの道を伝いながら祠までYを先導してやった。大岩までたどり着くと、その岩の下の方は大きく穴が開いた洞窟になっており、朽ちた縄が入り口あたりに落ちている。元々はしめ縄として洞窟の入り口をふさいでいたのが、年月とともに腐り落ちたのだろう。Yがその祠を写真に収めるのをみて、大叔父がもう十分だろう、帰ろう、と口を開こうとすると、Yは勝手に洞窟の入り口まで下りて行って中を覗き込もうとする。大叔父が「おい」と声を荒げ、Yが振り向いた瞬間洞窟の闇の中から伸びた手がYの腕をつかみ洞窟の中へ引きずり込んだ。
熊が中にいたのか。しかしその手は熊のものよりも細い、まるで人の手のように見えた。大叔父が洞窟の入り口まで走り寄り、背負っていた猟銃を構えて洞窟の中に向けると、そこには仰向けに倒れたYとそれに覆いかぶさる何者かの姿があった。Yは首から血を流し手足は力なく変な方向に曲がっている。そしてそれに覆いかぶさる何者かはYの肩口に口をつけビチャビチャと音を立てながらその体を咀嚼している。大叔父は反射的に猟銃の引き鉄を引いていた。銃声が響き、その何者かの体が衝撃でぐっと傾くが、それだけで何もなかったようにこちらを振り返る。その何者かは人の姿をしていた。髪は長く伸び、ぼろきれを身にまとい、そして両手両足、頭部は明らかに人間のもの。しかしその目と口だけが人間のものではなかった。目は60度程まで吊り上がり瞳孔が点のように小さい。そして血に染まった口は大きく裂け鋭い牙が並んでいる。その顔が大叔父を見て笑った。目を鋭く細め、牙をむき出し口角が耳元まで吊り上がる。獲物を前にした肉食獣の笑みだった。
大叔父は恐怖に猟銃を取りおとし、背中を向け一目散に走った。さっき通ったけもの道を転びそうになりながら駆け戻る。途中何度か後ろを振り返ったが、化け物が追ってくることはない様子だった。
何とか山小屋まで戻ったが、その扉に手をかけたところで「Yです」と遠くから声が響く。Yが生きていて助けを求めているのかと一瞬思ったが、さらに声は「お世話になります。お世話になります。お世話になります」と続く。化け物がYのふりをして大叔父を呼んでいるのか。大叔父は山のふもとの人里まで逃げ帰りたかったが、もうすぐ日が沈む。夜の闇の中では、山に慣れた大叔父でもふもとまでたどり着くことはできない。
大叔父は山小屋に入ると、扉に錠をかけ、ありったけの家具を扉の前に積んだ。そしてできることがなくなると化け物への恐怖を思い出し、体を丸めて山小屋の隅に縮こまった。そのあいだにも「Yです、お世話になります」という声が繰り返し遠くから響いてくる。その声が徐々に大きくなってくる。「Yです、お世話になります!お世話になります!お世話になります!」
大叔父は恐怖に涙を流しながら昔猟師仲間から聞いた魔よけの方法を思い出していた。曰く、炭には怪異の目から人を隠す効果がある。怪異に目をつけられた際には炭を体中に塗って怪異から身を隠すのだと。大叔父は着ていたものを脱ぐと暖炉から炭を取り出し体中に塗った。両手、両足、顔、腹、背中、全身にくまなく塗りたくり頭から灰をかぶった。その間にも「お世話になります!」という声はどんどん大きくなり、ついに扉の前まで来た。そして扉をドン!ドン!と強い力でたたく。そのたびに小屋全体がみしみし揺れる。小屋の錠は木の板を穴に差し込む簡素なもので、扉が破られるのは時間の問題だった。
大叔父は再度山小屋の隅に縮こまった。そしてついにドン!ドン!バリ!という音ともに扉が破られる。扉の前に積まれた机や椅子をはねのけて、化け物が山小屋の中に入ってきた。大叔父はそちらを見ることもできず、体を丸めて目をつぶって頭の中で一心不乱に念仏を唱えていた。化け物が小屋の中をうろうろと歩き回る気配がする。「Yです、Yです、Yです」とどこか不思議そうな声音で繰り返す。しかし大叔父を見つけることができないのか小屋の中を行ったり来たりしている。そして化け物が小屋の入口の方へと歩いていく気配がする。やっと出て行ってくれるのか、と大叔父が薄く目を開けると、こちらを振り向いた化け物と目が合った。
化け物はYの姿をしていた。服は血まみれで、眼鏡は割れ、手足は変な方向に曲がっている。そのYの体を中に入ったものが無理やり動かしているように、不自然な動きでぎぎぎ、とこちらを振り向く。そして先ほどの化け物と同じ吊り上がった目と裂けた口で、ニィと笑った。その瞬間Yの手が大叔父の顔へと伸びた。左目に激痛を感じた。大叔父は奥歯をかみしめ声を出さないようにしながら再び両目を強く閉じた。
化け物はまた「Yです、Yです、Yです」と不思議そうに繰り返していたが、それが徐々に遠ざかっていくのを、大叔父は薄れゆく意識の中で感じていた。
気づくと朝になっており、大叔父は自力でふもとまで帰った。Yさんの失踪は獣に襲われたものとして処理されたそうだった。
だから、と大叔父が私に向かって繰り返した。山には決して立ち入ってはいけない場所がある。だから気をつけろと。そして、でも、と続ける。戸締りにも気をつけろよ、と。最近人里に熊が下りてくるなんて事件が増えているけれど、下りてくるのが熊だけとは限らないから、と。

























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