これは数年前、私が大学進学を機に一人暮らしを始めた頃の話です。
住まいに選んだのは、築四十年は優に超えているであろう木造の二階建てアパートでした。
「壁が薄い」という言葉では生ぬるいほどで、隣人が今、部屋のどのあたりで寝返りを打ったかまで手に取るように分かる。住人の質も悪く、夜な夜な怒鳴り声や鈍い衝撃音が響くような場所でしたが、当時の乏しい仕送りでは、そこが私の世界のすべてでした。
そんな劣悪な環境に慣れ始めた、初夏の頃です。
私の隣の空き部屋に、一人の男性が越してきました。
三十代半ばほどでしょうか。特徴のない穏やかな顔立ちに、丁寧な物腰。薄汚れたアパートの住人たちの中で、彼だけが「真っ当な人間」の輝きを放っているように見えました。
私は内心、こんな掃き溜めに彼のような人が来たことを不思議に思い、同時にどこか安堵したのを覚えています。
ですが、彼が越してきた最初の夜。その安堵は、根源的な恐怖へと塗り替えられました。
深夜二時。隣の部屋から、鼓膜を突き刺すような大声が響きました。
それは楽しいから笑うといった類のものではありません。肺にあるすべての空気を無理やり吐き出し、喉をかき切るような、絶叫に近い笑い声。
壁を蹴る音、怒号。他の住人たちも黙ってはいませんでしたが、彼は一切怯むことなく、夜が明けるまで笑い続けました。
八月に入り、街全体が逃げ場のない蒸し蒸しとした熱気に包まれた、ある早朝のことです。
私はゴミを出すために、重い足取りで一階へ降りました。そこで、彼と鉢合わせたのです。
私が気まずさに視線を落とした瞬間、心臓が跳ね上がりました。
彼の半袖の袖口から覗く両手首。
そこには、赤黒く盛り上がった「溝」が、幾筋も刻まれていました。
古い傷、新しい傷、そして今にも血が滲み出しそうな、深く抉れた傷。
思わず息を呑んだ私と目が合うと、彼は一瞬だけ、気まずいような何とも言えない顔を浮かべました。そして、滴り落ちる何かを隠すように足早に自室へと戻っていきました。
その日を境に、彼の狂気は加速していきました。私にとっては些細なことでも彼にとってどうなのかはわかりません。
笑い声はもはや部屋の中に留まらず、廊下へ、そして私の部屋のドアの前へと近づいてきたのです。
夜、私が布団の中で震えていると、ドアのすぐ向こうで「ピチャッ……ピチャッ……」という濡れた音が聞こえ始めます。
そして、あの笑い声。
ドアの下の隙間から、どろりとした黒い液体が染み出してくるのが見えました。彼の部屋から私の部屋まで、血の染みが一本の道のように繋がっている。
恐怖で警察を呼ぼうとしましたが、手が震えてスマホのロックすら解除できない。
やがて管理会社と警察が動き、彼は「強制退去」という形でアパートを去りました。
それから一週間。私はようやく、平穏を取り戻したつもりでいました。
今、窓の外は夕闇に包まれています。
ふと時計を見ると、針はちょうど19時を指しました。
その瞬間。
一週間ぶりに、あの音が聞こえてきたのです。


























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