私が以前のマンションから引っ越した理由の話です。
ある日の朝、仕事に向かうため部屋を出ると、視界の端に何かが映りました。
少し驚いた私ですが、視線をそちらに向けると、それはただの椅子でした。
思い返してみると、お隣の部屋が最近忙しない雰囲気だったので、
引っ越しでもするのかな、と廊下に置かれた椅子に納得しました。
しかし、実際にお隣が引っ越してからも、
その椅子は一カ月近く廊下に放置されたままでした。
いい加減気になって仕方がなかった私は、
椅子まで近づいて、観察してみることにしました。
錆びが目立つ金具、ボロボロに剥がれた合皮の座面。
それは何の変哲もない使い古しのオフィスチェアでした。
結局、何故放置されているのかはわからないまま、私は日常に戻りました。
それからまた、一週間ほど経った頃だったかと思います。
未だそこに鎮座している椅子に、私は違和感を覚えました。
もちろん、椅子が放置されている状況それ自体おかしなことなのですが、
私はまた近づいて、観察して、座面が浅くへこんでいることに気がつきました。
以前見たときにへこんでいたのか、覚えてはいませんでしたが、
なんだか私にはそのへこみがとても生々しく、気味が悪く感じられたのです。
朝、通勤のために部屋を出る。晩、仕事から部屋に帰ってくる。
そのたびに視界に入る椅子。
遠目で見ても、あのへこみがだんだん深くなっていることがわかりました。
いつしか私は、
あの椅子に何かが座っているのではないか、
時間が経つにつれて、その何かが形を成していくのではないか、
そんな妄想に囚われていました。
明日、ドアを開けたらそこにいるかもしれない。
今夜、帰宅した時、座っているそれを見つけるかもしれない。
精神的に参ってしまった私は引っ越しを決意し、
退去当日まで、椅子の方向へは視線を向けずに過ごしました。
なので当然ですが、それ以来あの椅子は目にしていません。
けれど、今でも思い出すのです。





















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