息子を探しています
投稿者:オウギノ (1)
これは、やっと大学に入ってまもないころに行方知れずになった息子が、PCに書き残していた日記のような文章です。
いまごろどこでどうしているか、警察にも家出人の届を出してずっと探してきましたが、見つからずにもう20年以上になります。
同じような意味不明なことを言っている奴を見かけたらどうかご一報ください。
最初は怒りもしましたが、いまは私も家内も、無事に戻って来てくれさえすればそれで良いという気持ちです。
息子は大学に入ってから、哲学とかいうのにかぶれていたようです。
大学を出ていない私や家内にはなにを言っているのやらよくわからないのですが、どうもそのせいで息子はおかしくなってしまったようなのです。
どうか、私どもの息子を見つけてやってください。
* * * * *
4月12日(金)
入学式。武道館にて。新入生の数が多すぎて、なんだかよくわからないまま式は終わった。しかし、受験も終わったのだから、これ以上もうあのバカどもと付き合う必要もない。
4月19日(金)
やっと志望校に合格したのに、まわりの学生がバカで付き合いきれない。勉強だけはできるらしいが、合コンとかサークルとか低俗な話ばかり。こんなはずではなかった。
4月24日(水)
おれは気づいてしまった。全部嘘だったんだ。
5月13日(月)
理系の連中と議論を交わした。やはりなにもわかっていない。あいつらは自分の外に物理的な客観的世界が広がっていると思い込んでいる。しかし、その証拠を出すことができない。おれに論破されそうになって、「それでも、あるもんはあるやろ」と捨て鉢なことを言う。そうではない。「ある」と思うには、見えたり、聞こえたり、触れられたりしなければならない。けれども、見ようと、聞こえようと、触れられようと、そんなものはみんなおれの主観に過ぎないではないか。主観と客観の構図が実在しているわけではない。所詮、この世のすべてはこのおれが見える、聞こえる、触れられる、感じられることの集合である。主観だけが実在する。
5月22日(水)
目の前にペンがある。おれにはそれが見えている。おれはそれに触れられる。ペンを落とせば、おれにはその音が聞こえる。だから、ペンはそこに在る。それ以上の「客観的証拠」なんてどこにあるというのか。自分の主観の外に確認しに行くことは絶対にできないのに。
5月28日(火)
戦慄すべき事実に気がついた。これまで「世界は主観的に捉えられる対象の集合でしかない」という命題を、おれはもっぱら物について考えてきた。しかし、それが他者について言えないと考える論理的な根拠もない。物とおなじく、者(つまり人間)もまた、一般的には物理的存在だと考えられている。そして彼らが見えていて、声が聞こえていて、匂いがするから、おれは彼らがそこにいると認識しているのに過ぎない。だれもかれも、おれの主観のかたまりにしか過ぎないのだ。
6月6日(木)
他者はことごとく、おれの主観的世界に映じる像に過ぎない。それはなにを意味するのか。おれは独りである。このおれ以外は、おれの世界の登場人物に過ぎない。主観的に彼らや世界を見ている存在は、実はおれだけなのではないか。子どものころから、なにかがおかしいと思っていた。まわりの連中が、家族も、友人も、先生も、知り合いも、知らないひとたちも、実はみんな裏でつながっていて、或る日突然おれに全部芝居だったという事実を「実は…」と打ち明ける日が来るのではないか ― 漠然とだが、ずっとそんなふうに思っていた。そう、この世界は全部嘘だったんだ。
6月26日(水)
おれは、この世界に本当の意味で存在するのはおれだけだ、という結論に至った。しかし、それさえも、まちがっていたのかもしれない。おれは、この世界におれだけだ、と考えているが、それが正しいとすると「おれ」ということばでおれをおれでないものと区別する必要もない。「おれ」とはこの世界の全体であり、世界とは「おれ」のことだったのではないか。嗚呼、世界は存在してしまったのだろう…。
7月1日(月)
アメリカの同時多発テロが起こってからたくさんのひとが死んだが、なにも変わりはしなかった。あいつらはみんな、おれの世界に映じる主観的な像にしか過ぎないからだ。赤の他人が何人死のうと、親父やお袋が死のうと、弟や妹が死のうと、なにも変わらずに世界はつづくだろう。
それでは、おれ(他者と区別する必要ないものを「おれ」と呼称するのもおかしいのかもしれないが)はどうなのだろう。おれが世界そのものなのだとすれば、おれが死ねば、世界は終わるのだろうか。これは哲学的な好奇心からおれが行う、恐らくは最後の実験である。おれの考えている通りなのであれば、おれ=世界の死によって世界は終わるだろう。単に痛いとか、苦しいとか、そういうことではなく、おれ=世界である主観は消えて失せ、本当の意味で世界は終わる。主観的世界の登場人物に取り囲まれて、独りで生きていくのにおれはもう疲れた。おれは全人生を自身のこの主観のなかに閉じ込められてきた。しかし、なぜか哲学というヒントが、この主観の世界には与えられている。思考して、外に出てみろ、ということなのか。おれが死んだとき、おれは外の世界になにを見出すのだろうか。外の世界には、だれかいるのだろうか。おれは自分を主観の牢獄から解放する。
これは…プロの仕業
狂気…とはまたちょっと違うのかな
奇妙な緊張感があって怖い
トゥルーマン・ショーというような感じ…息子さんがまるで主観的唯心論に陥ってしまったよう
思い詰めたより哲学者と相談したほうがいい
最後まで読んで惜しい、プロの哲学者になることができるのに
素朴独我論を哲学の全てと思わず近代哲学をきちんと勉強すれば救われただろうに
>おれは自分を主観の牢獄から解放する。
ラスト一文を読み、息子を持つ親として
どうか、最悪の選択をしていませんようにと・・・思いました、
これは…自分もなったことがありますが一度考え出すと抜けられないやつです。
何か進展がありましたら続報お願いします。
PC置いていくんかい!
自分の考えが正しかったかどうか確かめようもないわな、だから考えないのが1番だよ。