十五年前、私は「音響記録のデジタル化」という名目の短期労働に応募した。
三週間拘束で六十万円。借金の返済期日が迫っていた私には、条件の不自然さよりも数字の現実味の方が重かった。
都内の雑居ビルで受けたのは、聴力検査だけではなかった。微細な周波数の聞き分け、鼓膜の反応速度、光に対する瞳孔の収縮時間。検査員はほとんど喋らず、私の「遅れ」を測っているように見えた。
選ばれた五人は、そのまま車で郊外へ運ばれた。
到着したのは、塩田の中央だった。視界の端まで白が広がり、地平線が曖昧になる。その真ん中に、巨大な金属製のハッチが地面に口を開けている。建物らしいものはそれだけだった。
地下へ降りる階段は長く、途中から風の音が消えた。
地下ホールに集められた直後、通路の奥から、空気が引き裂かれるような音がした。
振り向くと、男がこちらへ歩いてくる。
歩いているのに、足が床に着く音が遅れる。腕を振ると、残像が遅れて揺れる。口が開き、閉じる。そのあとで声が落ちてくる。
「……」
言葉の形は読めない。声だけが、数秒遅れて空間に固定される。
男は近くにいた一人の肩を押した。押された側がよろめいた瞬間、男の動作が追いつく。時間が二重に重なっているようだった。
防護服の職員が六人がかりで男を押さえ、奥へと引きずっていった。その間、男の視線だけが私たちを見ていた。瞬きもせず、焦点も揺れず、ただ見続けていた。
その後、何事もなかったように作業説明が始まった。
業務は単純だと告げられた。一日三時間、遮音室でヘッドホンを装着し、流れてくる超低周波ノイズを聴きながら、画面上の波形を微調整する。
外出は禁止。契約解除は違約金。署名はタブレットで済んだ。
寝泊まりは地下三階の個室だった。窓はない。時計も置かれていない。時間は食事と作業で区切られる。
最初の十日間、異変は耳鳴りだけだった。低い振動が体内に残り、夜も完全な静寂が来ない。
十二日目の朝、洗面所で顔を上げたとき、違和感に気づいた。
鏡の中の私は、ほんのわずかに遅れてまばたきをした。
気のせいだと思い、手を振ってみる。鏡の中の腕が、私より先に動いた。
食堂で他のメンバーを見ると、全員の動きが揃っていない。椅子を引く音が先に鳴り、座る動作があとから追いつく。誰かが笑うと、口が閉じたあとに声が漏れる。
管理者に訴えても、「基準値内です」とだけ言われた。
夜、廊下の照明が一瞬だけ暗くなった。警報は鳴らない。ただ、空気の圧が変わる。
監視モニターに、一人の参加者が映っていた。自分の腕を壁に叩きつけている。
「止めろ……」
口がそう動いた。だが廊下のスピーカーから流れたのは、数秒後の声だった。口の形と一致しない。
翌朝、その部屋は空だった。荷物も、歯ブラシも、何も残っていない。
残った四人は、互いに距離を取るようになった。誰かと目を合わせると、自分の輪郭がずれる気がする。
私は、自分の影を踏んでみた。




















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