通報から十分も経たないうちに、館内の非常灯だけが外から見えたという。窓の少ない保存施設は、夜になるとただの黒い箱になる。だから、あの夜の白い光は異様だった。
この話をしてくれたのは、その施設で保守を担当していた知人だ。今は現場を外れている。話すとき、彼はいつも机の上で自分の指先を擦る。何かが付いていないか確かめるように。
事故は深夜一時過ぎに起きた。
収蔵庫は気密が高く、温度と湿度を一定に保つ。火災時には酸素を奪うガスが自動で放出される仕組みだった。その夜、警報盤のランプが一列に点滅し、直後にガスが放出された。
中にいた五人は、ほとんど抵抗の跡もなく倒れていたという。転倒した台車が一台。落ちた手袋が一枚。暴れた形跡はない。意識が落ちるまでの時間が、あまりに短かったのだろうと報告書は記している。
だが、知人が繰り返すのは別のことだった。
「事故の日の入館照合をしたのは、俺なんだよ」
その施設では、入館のたびに指先で認証を行う。カードだけでは扉は開かない。登録された指の情報と一致しなければ、収蔵庫の扉は動かない。
死者五名のうち一人だけ、登録データと照合が合わなかった。
読み取った指の情報が、施設に残っている登録と微妙に違う。誤差と呼べるほどの差だが、何度取り直しても一致しない。数値は同じ範囲に収まるのに、最後の桁だけが揺れる。
知人はその揺れが気になったという。模様が違うのではない。押しつける力の分布が、記録と合わない。湿り方が違う。接触の癖が違う。
事故から数日後、その「一致しない」人物が受付に現れた。
昼間だった。男は事故当日に回収されたはずの通行証を持っていた。裏のシールは端がめくれ、何度も貼り替えた跡がある。
「ニュースで、自分が亡くなったことになっているのを見ました。でも、僕はここにいます」
男の顔は、事故記録の写真とよく似ていた。体格も年齢も一致する。声も落ち着いている。ただ、指の照合だけが通らない。
登録された指と、この男の指が合わない。
男は何度も読み取り機に指を押し当てた。そのたびに、機械は小さく否定音を鳴らす。彼は自分の指先を見つめ、「そんなはずは」と繰り返した。
身元確認のために家族の名前を尋ねると、男は答えた。だが、呼び方が揺れる。父の名前を言い直し、母の勤務先を途中で忘れ、兄弟の順番が曖昧になる。思い出しているというより、空欄を埋め直しているような口ぶりだった。
男は言った。
「僕はあの日、中にいました。冷たくなって、息が浅くなって、耳が詰まる感じがして……」
そこで言葉が止まった。
知人は、その沈黙を覚えているという。考えている沈黙ではない。怯えている沈黙でもない。ただ、続きが存在しない沈黙だった。
後日、死亡者一覧のログを整理していた別部署の職員が、奇妙な記録を見つけた。
その「一致しない」人物の欄にだけ、事故日より前の日付で「認証無効化・完了」という処理が一度だけ残っていた。担当者名は空欄。手順上、空欄はありえない。
つまり、事故が起きる前に、その指は無効化されている。
だが事故当日、収蔵庫の扉は確かに開いている。誰かが認証を通して入っている。
「模様だけじゃないんだよ」
知人はそう言った。
「読み取り機ってさ、指の押し方を覚える。湿り方とか、力のかけ方とか。模様より、そっちが残る」
事故の日、彼は五人分の入館を確認している。照合は通った。扉は開いた。

























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