歴史的に見ても中国の軍隊は寄せ集めの烏合の衆であることが多く、あまりのモラルのなさから〈兵匪〉と呼ばれ蔑まれていた。彼らは勝てば官軍の言葉通り、占領地で暴虐の限りを尽くす。食料を奪い、金目のものを盗み、女性を犯す。
当時の中国軍も大部分は、訓練もロクに受けていない農民で構成されていた。
日中戦争当時にも〈ハーグ陸戦条約〉という国際的な戦争のルールが一応制定されていたものの、それを上記のような間に合わせ集団の末端にまで徹底させられるほど、国民党軍の軍紀が整っていたとは思われない。
彼らは昔からの伝統にしたがって、落ち延びた先の町を略奪していった。日本軍が追いついたころには猫の子一匹いない、荒廃したゴーストタウンがあるばかりだったのだ。
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昭和12年12月1日
南京攻略決定す。隊の雰囲気目に見えて活性せり。同日早速進軍始まるも、行軍ははなはだ辛く、38式の重さが堪える。食料は乏しく、冷雨に降られて体調を崩す者続出せり。
昭和12年12月7日
前日、句容攻略完了す。まれにみる大会戦であった。自分の隊からもついに死者が出る。支那兵は状況不利と見るや即座に投降する傾向大なり。句容戦でも帝国陸軍は多数の捕虜と装備の鹵獲を得た。鹵獲品のなかにはロシア製の火器が相当数混じっており、支那共産化の懸念を新たにす。
昭和12年12月8日
南京城包囲。辛い行軍もここが最後だと分隊長が喝を入れられる。12月10日はほかの部隊と共同で総攻撃をかける由。武者震いで目が冴えてしまう。今夜は眠れそうにない。
昭和12年12月9日
陣地構築。塹壕を掘り、穴ぐらのなかで1日中待機する。支那軍が近隣の村を焼いているとの報せ多数。無辜の支那人民のためにも明日の総攻撃は成功させねばならぬ。
昭和12年12月14日
多忙を極め、近々の日記を怠ってしまった。総攻撃は成功裏に終わり、南京は陥落せり。城内に入場するも、すでに主力部隊は遁走したあとであった。われわれは城内の治安維持にあたり、民間人への略奪は厳に慎むべしと命令を受ける。
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〈南京大虐殺〉は80年以上経ったいまでも、百家争鳴の続く謎に包まれた事件である。
中国は日中戦争初期の1937年12月下旬、国民党軍の本拠地であった南京市を日本軍が占領した際、住民30万人を虐殺したと主張している。これは軍人を含まない非戦闘員の住民がそれだけ殺されたという趣旨のようである。
いくら大日本帝国陸軍が世界でも類を見ないほど軍紀の整った軍隊であったとはいえ、まったく略奪が行われなかったということにはならない。なんらかの暴力沙汰は残念ながらあっただろう。
とはいえ犠牲者30万人というのはさすがに無理がある。その根拠は以下の通りである。
1、南京市の人口
1937年当時の南京市の人口は、およそ30万人前後であった。中国側の数字が正しいと仮定すると、日本軍は南京城内をくまなく捜索し、老若男女の区別なく住民を皆殺しにしたことになる。
広島と長崎に投下された原子爆弾の災禍ですら、死者数は数万~10万人のオーダーなのだ。それをはるかに上回る人数を人力で、それも占領後たったの1~2週間で完遂するというのは現実味に欠けると言わざるを得ない。
2、南京住民からの歓迎
南京陥落後、日本軍は住民から熱烈な歓迎を受けている。写真でも証拠が残っており、兵士に駆け寄る子どもの姿が写っているものもある。いくつかプロパガンダ用の宣伝写真が混じっていたとしても、これらの証拠を見る限り強制された演技のようには思われない。
祖父の日記にもある通り、中国軍は退却した先々で徹底的な略奪を行っている。南京も例外ではなかったはずだ。そうであるならば、住民が〈兵匪〉と化した国民党を追い払ってくれた日本軍を歓迎するのは、ごく自然な態度であろう。
そもそも友好的に接してくる住民を一方的に惨殺する合理的な理由はない。現地住民の信頼を得て統治がやりやすくなっているのなら、その状態を保てるよう現状維持を心がけるのが占領政策の基本であろう。
3、便衣兵の存在
ハーグ陸戦条約では便衣兵(民間人に扮した兵士)の運用を固く禁じていたが、国民党軍はむしろこれによるゲリラ戦を好んで採用した。多数の住民がひしめく南京市で便衣兵を忍ばせられた場合、占領側で民間人と軍人を区別するのはほとんど不可能だ。
外国人記者が目撃したという〈住民の殺戮〉というのは、便衣兵の処刑であったと解釈すればつじつまが合う(便衣兵は国際条約違反なので正当な捕虜としての扱いは受けられず、投降しても処刑されるのが通例であった)。


























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