祖母にそれとなく聞いてみたこともあったが、祖母もほとんど知らなかったようだ(そんな彼女もアルツハイマー病を発症し、83歳で鬼籍に入っている)。戦争の話をせがむと祖父は露骨に不機嫌になり、拳が飛んでくる。祖母は極力戦時中の昔話に触れないよう神経をすり減らしていたらしい。
頑として戦争体験を語らなかった祖父。彼はかの地でどんなおぞましい体験をしたのだろうか。
数年前、その答えらしきものをわたしは知ることになった。
* * *
数年ほど前の夏、わたしは祖父母の家へふらりと立ち寄った(いまでは父が管理しているものの無人で、お盆に親戚が集まるときの宴会場として残してある)。冬のあいだは屋根近くまで雪に閉ざされる寒村も、夏はクーラーいらずの避暑地となる。
なにか用事があったわけではない。仕事にかまけて何年も在所へ行っていなかったので、墓参りついでに寄っただけのことだった。
在所は古い木造の一戸建てで、山奥の清流沿いにひっそりとたたずんでいる。家の奥は鬱蒼とした植林の杉林で、祖父母の家が集落のどん詰まりに位置している。周りには離婚騒動で一家離散した旧友の空き家と、都会から移住してきた若い夫婦の家があるきりで、あたりは森閑と静まり返っていた。
郵便受けに隠してある鍵を使い、内部に入る。縁側に面した窓を開け放つと、涼しげな風がさっと吹き込んできた。標高300メートル台に位置する祖父母の家は、真夏でも30度を超えることはまずない。それでも座敷には幽かなカビ臭さが漂っている。父親が定期的に清掃しているらしいのだが、家は人が住まなければ荒れるいっぽうだ。
座敷の仏壇に手を合わせ、続いて勾配の急な階段を昇って2階へ。2階の一室には父の妹が使っていた化粧箪笥がいまもそのまま置いてあり、当時のロック歌手と思われる人物の色あせたポスターが貼ってある。純日本家屋のなかで、それは異彩を放っていた。
毛羽立った絨毯には、夥しいカメムシの遺骸が腹を上にして転がっている。この村に限らず田舎でこの害虫を見ない季節はない。ことに冬はひどい。外干しした衣服には高確率でカメムシが忍んでおり、靴下を履くのと同時にこれを踏み潰すことがよくあった。
わたしはふと、叔母が使っていた化粧箪笥が気になった。当然といえば当然だが、いままで一度も引き出しを開けたことがなかった。結婚して滋賀県に移住した叔母。彼女の青春時代を垣間見られるなにかがあればと思って、何の気なしに最上段を引っ張ってみた。
1冊のノートが入っていた。
かなり古いものらしく、ボロボロに日焼けしていてめくった先から破れそうな代物だ。B5判くらいの小さなノート。表紙にタイトルらしいものはなく、右端を糸で綴じてある。縦書きという時代がかった体裁から、叔母のものでないことは容易に想像がついた。
ためらいはあったものの、わたしは表紙をめくってみた。
驚くほどの達筆で〈支那日記〉と書いてあった(実際は旧漢字が使われていたが、以後すべて現代かな遣いで表記する。また年号も皇紀であったが和暦に改めた)。支那というのは戦前の中国の呼称である。どうやらわたしは、祖父がかたくなに黙秘し続けてきた戦中の行動記録を見つけたらしい。
わたしは時間を忘れ、夢中で読み漁った。以下に内容を抜粋して掲載する。
※年号や記述から推察すると、祖父は蒋介石率いる国民党討伐作戦に従事し、中支那方面軍のいずれかの師団に所属していたと思われる。誰の指揮下に入っていたのかまでは判別できなかった。
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昭和12年11月5日
上海に上陸す。敵兵の攻撃散発的なり。発砲されるも的はずれること多く、照準の狂った粗製乱造品である由。隊の雰囲気、楽観的なり。
昭和12年11月9日
攻略速度めまぐるしく、帝国陸軍の実力を再認識するにいたる。支那軍、上海からことごとく遁走す。上海は陥落、祝賀会が開かれる。羽目を外して痛飲しすぎる者多数。自分も明日の朝、二日酔いは必定なりと覚悟す。
昭和12年11月11日
遁走した国民党軍の処遇について、隊で意見が噴出す。追撃を敢行し、国民党軍を完膚なきまでに叩きのめすのを信条とする支那膺懲派、あくまで政府の不拡大方針に忠実な穏健派。自分は前者に与して激論を戦わせた。いやしくも帝国軍人であるならば、無辜の日本人を殺害した支那人を許すなどとうてい考えられぬ。
昭和12年11月15日
上層部での議論、いまだ決着せず。われわれは上海に足止めされ、無為の日々をすごす。国民党軍を膺懲するは必定なり。汪兆銘こそが支那を支配する真の傑物である。
昭和12年11月25日
戦闘に参加しており、日記を書くのが遅れてしまった。われわれは支那軍を追って南京を攻略すべく動き出している。無錫市攻略では壮絶な市街戦となったが敵の大多数はすでに退却、町は徹底的に略奪されていた。同胞の物資を奪う神経が自分にはわからぬ。
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蒋介石の国民党軍は日本軍の追撃をかわしつつ、ヒット・アンド・アウェイ戦法で中国奥地へと落ち延びる方針であった。そうすることにより日本軍の補給線を延長させ、息切れを狙ったものと思われる。
当の国民党軍は行く先々の町で糧食を奪えばよいので、自分たちの兵站問題は解決する。彼らは略奪だけに飽き足らず、町を徹底的に破壊していった。追撃してくる敵には米粒ひとつ残さない。これは〈堅壁清野〉という一種の焦土作戦であり、中国のお家芸でもあった。
























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