これは私が祖父から聞いた話です。
昭和三十三年。大型の台風が直撃し、川は氾濫、町は泥と瓦礫に呑まれた。
当時は堤防の補強も、避難所の整備もほとんどなく、警報もラジオ頼み。
夜中に水が押し寄せても、逃げ遅れる人が多かったという。
町並みも今とは違い、木造家屋が肩を寄せ合い、細い路地が入り組んでいた。
電柱は低く、街灯も少ない。夜は本当に闇だった。
田んぼには折れた電柱や家財に混じって、人の手足が浮かび、風が止んでも腐臭だけが残っていたという。
祖父はその翌日、仕事が終わり、いつものように家に帰ろうと車を走らせていた。
道はまだ冠水が引ききらず、両脇の田んぼは濁った水面を光らせている。
前方に、ヘッドライトを点けた一台の黒いセダンが、右折のために停まっていた。
祖父は減速し、ライトをパッと消して合図を送った。「どうぞ」──そう心の中で促す。
セダンはゆっくりと動き出し、ぬかるんだ交差点へと進み出た。
だが、次の瞬間── ふっと、闇に吸い込まれるように、その車は跡形もなく消えた。
祖父はブレーキを踏み込み、しばらく呆然とハンドルを握ったまま動けなかった。
── 耳の奥で、まだ水の流れる音がしている。
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