午前5時。
最後の巡回だった。病棟の端まで歩いて、異常がないことを確認し、ゆっくりと戻ってきたその時。
廊下の奥。ナースステーションの横の電灯が切れかけている、薄暗い場所に彼女は立っていた。
白い看護服。
長い黒髪が、肩よりもずっと下まで垂れていた。
姿勢は正しく、動かない。まるで、次の処置の準備でもしているかのように見えた。
けれど、その顔は生きている人の顔ではなかった。
血の気がまったくなくて、目だけが黒く沈んでいて、私のことをじっと見ていた。
その視線は、ただの通りすがりの誰かに向けるものではなかった。
“同じ立場の人間”を見る目だった。
私は、なぜか逃げられなかった。
怖い、というより、見てはいけないものを見てしまったという絶望に近かった。
彼女の唇が、音もなく動いた。それだけだった。
でも私は、なぜだかわかってしまった。
「まだ…終わってないの…」
それは私自身が、いつも心の中で言いかけていた言葉だったからだ。
次の瞬間、彼女の姿はすっと闇に溶けるように影も残さず消えた。
その後、先輩から聞いた。
「昔ね、この病棟で倒れて亡くなった看護師がいたのよ。
夜勤続きで、ずっと休まず働いててね。
周りともあまりうまくいってなかったらしいけど、すごく責任感の強い人だったって。
いなくなったあとも、仕事がまだあるって思ってるんじゃないかって…噂になったことがあるの」
私は黙ってうなずいた。
それが誰なのか、どうでもよかった。
私には、もうわかっていたから。
それから、あの人を見ることは一度もなかった。
けれど、夜勤の静けさの中、廊下の隅に誰かの気配を感じることがある。
それは恐怖ではない。ただ、ふと胸が締めつけられるような、そんな気配。
彼女はきっと、今もどこかにいる。
誰にも気づかれずに、誰の助けも求めずに――
あの暗い病棟の中、ひとりで黙々と、仕事を続けている。
けれど、あの夜あの人が私に見えたのは、きっと私もまた、同じ場所に立っていたからだ。
限界をこえて、助けを求めることもできずに、
笑顔の裏で、静かに壊れていく日々。
その姿は、他人ではなくもしこのまま何も変えなければ、いずれ自分もたどり着いてしまう未来そのものだったのだと思う。
そう思ったとき、私はようやく自分の「苦しい」を、言葉にしてもいい気がした。
誰かに、弱さを見せてもいい。
笑顔のままでいなくてもいい。
そんなふうに、少しだけ思えた。
























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