視界で動いた影を眼で追うと、森の中を五十メートルほど離れたところに獲物の姿がありました。雄のキジの赤い頭が地面をつついています。私はなるべく音を立てないように気を付けながら、肩に掛けた中折れの散弾銃に弾を込めました。はやる気を抑えて照門の先に狙いを澄まし、発砲すると同時に、「ぎゃーーーー」という男性の悲鳴が上がります。銃声から一瞬の間を置いて、キジはその場に崩れました。
しまった――。私はあわてて自分が弾を撃った方向に駆け出し、「大丈夫か」と叫びます。きっと他にも同じキジに狙いをすましていた人がいたに違いありません。最悪の状況が頭をよぎり、私は顔面蒼白になって、大声で呼びかけながら辺りを必死に探します。まだ携帯電話もない時代のことで、ここでは救急車を呼べません。弾を当ててしまった人を見つけて、森の外に止めた自分の車で病院に連れて行くほかなかったのです。
しかし、弾が飛んだであろう場所をいくら探しても誰もいませんでした。声を上げながら草いきれの中を走り回り、考えられるあらゆる場所を探し尽くして途方に暮れ始めたたころ。まさかこんな所にいるはずは、と思いつつ前屈みになって背の低い草むらをかき分けると、石彫のお地蔵様と目が合いました。氷矢で心臓を射貫かれたように体が硬直します。
お地蔵様は胸元で合掌した姿で、口を真一文字に結び、顔の左側は無残に打ち砕かれています。どうして森の中にお地蔵様が――。こんな道から大きく外れた場所にあるはずがないものです。恐る恐ると手を伸ばし、お地蔵様の砕けた顔に触れます。そこには鉛の散弾が痛々しくめり込んでいました。森の中をかけずり回って汗でぐっしょり濡れたワイシャツが、急に冷たくなっていくのを感じます。
大変なことをしてしまったかもしれない。先ほどとは違う焦りが押し寄せます。ここを離れなくてはいけないという一念で、車を止めた場所に戻ろうと歩き出しました。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう――。頭は半狂乱で、口からは念仏のように同じ言葉が繰り返しこぼれます。しかしどれだけ歩いても一向に車にたどり着きません。道に迷ったのだろうか。いや確かにこの方向のはずだ。しかしこんなに遠かっただろうか。ぐるぐると混乱する頭の中で、わずかに冷静な部分がそう思考します。
どれだけ歩いたでしょうか。高かった日は大きく傾き、木々が黒々と影を延ばします。すっかり藪知らずになった私はついに疲れ果てて、その場にしゃがみ込んでしまいました。夜になる前には何とかしなければ、と呼吸を落ち着かせようとします。すると急に、体中の血が意志を持ったように冷めていきました。視線を感じた肌が粟立ちます。凍えながら、ゆっくりと顔を上げると、顔の砕けたお地蔵様がすぐそこに立っていました。そこは草むらの中ではありません。周りには撃ち殺したキジもおらず、ここは確かにさっきとは全く別の場所です。
悲鳴すら上げられませんでした。いくら息を吸ってもヒューヒューと喉が鳴るばかりで呼吸にならず、頭が霞んでいきます。私はおずおずと跪き、その場で土下座しました。「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません」だだ謝るほかには何もできません。「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません」頭を地面に強く押し付けたまま、ずいぶん長い時間をそうしていたように感じます。「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません」
どれぐらい経ったでしょうか。何度も何度も謝っていると、恐怖で真っ白になっていた頭が、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。私は恐る恐る頭を上げます。お地蔵様は変わらずにそこに立っていました。しかし、先ほどまでの恐ろしさはもうありません。お地蔵様の口元は、柔和な笑みを湛えているように見えました。許してもらえたのだろうか――。
深く呼吸すると、お地蔵様の向こう側に道を見つけました。先ほどまではまったく気づきませんでしたが、もう森の出口のすぐそばまで着いていたのです。私は立ち上がり、お地蔵様の脇をゆっくりと通って向かいました。道に出てから振り返ると、森の中のお地蔵様はこちらを向いて私を見ています。深くお辞儀をしてその場を立ち去りました。
何とか車までたどり着いて乗り込むと、全身に疲れがあふれました。散弾銃を助手席に投げ出します。足が棒になってしまい、しばらく休まないことには運転ができそうにありません。フロントガラス越しの夕日はもう、今にも沈む瀬戸際で、夜と混ざり合って紫色の帯を山際に曳いていました。森に入ったときは昼頃でしたので、きっと何時間もお地蔵様に頭を下げていたのでしょう。日が暮れる前に森を出られてよかった――。疲労困憊の体を運転席に沈めて安堵します。しかし、私が眺めていたそれは、夕日ではありませんでした。それは、私の想像を裏切ってじりじりと高く昇っていきます。混乱する私をよそに、夜は訪れず、あたりは段々と明るくなってしまいました。
























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