豊橋市南部・旧汐名村に伝わる神話的存在「シオナリ様」について
調査者:佐原敬一(民俗伝承調査員)
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【1】地図にない集落「汐名(しおな)」
愛知県豊橋市の南部、太平洋に面する沿岸部に、かつて「汐名(しおな)」という名の村があったという記録が、
明治十二年の郷土地誌『三河沿海風俗記』に短く記されている。
「沿岸之民、潮音を怖レ、満汐日ニ祭ヲ為ス。村名ヲ汐名ト称ス」
(民は潮の音を畏れ、満ち潮の日に祭りをする。村は汐名と呼ばれる)
地図上には現存せず、明治中頃に「地滑り」により集落が移転したとの説もあるが、
地元の古老によれば「海が引いたんだ」と語るものもあった。
潮が引いた――浜が森に変わったというのだ。
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【2】伝承:潮鳴(しおなり)の神
汐名では、昔から「潮鳴(しおなり)」という神の名を口にすることを忌みとした。
祠も祭具も現存せず、ただ、森の奥にある湿地のような場所に、
**石の環(わ)**が埋もれているという情報を得た。
以下は、調査中に入手した明治期の私的日記からの抜粋である:
「…潮の巫女ト呼バレル娘アリ、名ヲ汐凪ト云フ。
村人、彼女ノ歌ニテ潮ヲ治メシト信ジ、祈祷ヲ託ス。
然レド神、声無キ者也。娘ノ心、喰ラワレ、遂ニ姿ヲ変ゼリ…」
これが、「シオナリ様」の原型と思われる人物――**汐凪(しおなぎ)**である。
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【3】交感、そして変容
汐凪は、神と“通じて”しまった巫女だった。
神の本質は定かでない。
人が形を与えることで仮初の姿を取る、“意志なき存在”。
潮のように、月のように、寄せては返すだけのもの。
それに彼女は、名前を与えられぬまま、触れてしまった。
そして、祝詞はやがて呪詞に変わり、
海を静めるはずの巫女は、潮を呼び寄せる器となってしまった。






















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