ガラスの糸
投稿者:砂の唄 (11)
「最後のページ、当時の校長が書き残した内容だが、M先生は自殺してる。それもガソリンをかぶっての焼身自殺だ。ノートの片隅に『Aは苦しみに苦しみ抜いた。私も同じように苦しまなければならない』って書き残してな」
車内には重苦しい沈黙が流れていた。
「M先生の行動っていうのは誰の目から見ても文句なしの最善だっただろう。最後はともかくな。もちろん赤ちゃんハウスのことなんか誰も知らないんだ、それは落ち度でも何でもない。だが、結果として関係した人間は全員不幸になった。これは紛れもない事実だ。赤ちゃんハウスのことを知っている俺達の最善はM先生の最善と同じだと思うか?」
車は私の家の前に停まり、私は車から降りた。佐野先生は「今日のことは口外しないように」と形式的な念押しをした。私は黙って頷くと、佐野先生は今来た道を戻って行った。私はそのまま何も考えられずに眠ってしまった。
それから3日間の間、私はケンともスズとも会えず、校長や佐野先生から何も聞かされることはなかった。校長と話をした日から3日目の20時ごろ、私の家の固定電話に電話がかかってきた。たまたま私がその電話をとったのだが、受話器から聞こえてきたのはスズのお母さんの声だった。「ユウ君?そっちにスズが尋ねて行かなかった?」その声は切迫していて、明らかによくないことが起こっていることを知らせていた。私は来ていないと答えると「ユウ君の携帯電話に何か連絡とかなかった?」と続けてきた。私はいいえを繰り返しながら、やっとこちらから聞き返そうとした時には電話はあっけなく切れてしまっていた。私は反射的に玄関まで走っていき、着の身着のまま乱暴に靴を履いて、鍵も持たずに家を飛び出した。
スズの家は私の家から歩いて10分もしない場所だったため、私はすぐに目的地にたどり着くことができた。チャイムを鳴らすとスズのお母さんが飛び出すように出てきたが、私の姿を見るとその速度は失われてしまった。私は家にあげてもらい、居間の方へ通された。そこではスズのお父さんがイライラしたように携帯電話を握りしめ、分娩室の前をうろうろする若い父親のような感じで同じところをぐるぐると歩き回っていた。スズのお父さんは私を見つけると電話口で聞いた内容と似た質問をしてきたのだが、私が先程と同じ答えを返すと、落胆したような表情を見せてまた同じところを歩き始めた。
家の前に車が停車する音がして、玄関のドアが開く音が聞こえた。居間に入ってきたのは校長とケンだった。校長は私の顔を見ると少し驚いたような顔をしたが、「伊藤君のところにも行っていませんでしたか」と独り言のように言って、ケンを連れて私の座るソファの方へ歩いてきた。ケンは体中が震え、見たことがないほどに狼狽えていて、私がいることにも気づいていない様子だった。
スズのお母さんも居間に入ってきて、校長達と向かい合うようにして絨毯の上に座った。その表情は平静を装っていたが、薄皮一枚の裏に激情が渦巻いていることは誰の目にも明らかだった。スズのお父さんは校長とケンに背を向けるように立ったままで、決して座ろうとはしなかった。校長はそうした状況に物怖じしない様子で話を始めた。
「到着が遅くなって申し訳ありません。今、他の先生達がスズさんのお友達や部活で交流のあった人物に連絡をし、行方を捜しています。内田君も動揺していまして、まだ話は聞けていません。しかし、内田君も当事者の一人ですから、ただ部屋でじっとしていていい立場ではありません。酷だと思うところもありますが、最低限の責任として一緒に来るように話し、同行してもらいました」
「どこか……スズの行きそうな場所に心当たりはない?」
スズのお母さんは努めて優しげな声を装いケンへ聞いた。ケンは問いかけに答えず黙っていた。その間の沈黙を誰も責めはしなかったが、擁護もせず、ただ無為な時間だけが流れた。
「スズと…スズさんと夏休みに××公園に行きました。そこの…景色のいい高台の休憩所で、スズが言ったんです。『すごくきれいな景色。死ぬときはこういう景色のいいところがいいな』って……」
私と校長を除く誰もが涙ぐんでいた。すすり泣きが寄せては返す波音のように響き渡る中、校長は重々しく口を開いた。
「××公園は遠足で定番の行先でしたから場所は分かります。ここからなら車で1時間、いえ、1時間半でしょうか。2、3時間前にスズさんが家を出ていたとして、電車もバスもまだたくさんある時間です。そこへ行ってみましょう」
校長は私とケンの顔を無言で見た。私は迷いなく立ち上がたが、ケンはひどく緩慢な動作でのろのろと立ち上がった。
校長は「もし戻ってきたときのためにお2人はここにいてください」と、まだすすり泣くスズのお母さんとお父さんに話をした後、車のキーを取り出し早足で車へと向かった。私とケンは校長の後を追いかけ車に乗りこんだ。私は助手席に座り、ケンは後部座席に座った。校長は運転席に乗り込む前に携帯電話を取り出してどこかへ連絡を取っていたのだが、その間も私とケンは何一つ言葉を交わすことはなかった。
××公園に到着したのは22時を少し過ぎたころだった。××公園はかなりの広さを持つ観光地で、昼間には観光バスも停まっているのだが、この時間には駐車場に停まっている車は皆無だった。校長はケンの言っていた高台の休憩所を知っているようで、車から降りると駆けるように公園内へ入って行き、私もそれに続いた。
公園の中は数メートルおきに設置してある年季の入った街灯と稀に置いてある自動販売機の明かりだけが静かに輝いていて、すれ違う人もないまま、私は校長の後ろを必死に追いかけていた。上り坂が続いた先で少し開けた場所が見えた。街灯が頼りなく照らす先には木製のベンチが複数、その少し先に丸太を組み合わせたような柵が連なっているのが見える。ベンチから10メートル程離れた場所で私達は足を止めた。
スズは真ん中のベンチに座っていて、私達の足音に気づいたのかゆっくりとこちらを振り向いた。街灯の明かりに照らされたその表情は優しく微笑んでいるようだったが、それはすぐに拒絶を示す敵意に満ちたものに変わった。街灯が古いのか光が弱く、月明かりに似た光の中に浮かぶ、白いワンピースを着たスズの姿は片手にブーケを、片手に短剣を持った花嫁を思わせた。その剣先は私達へ向けられているはずだが、それは、やはり、スズの喉元へと向けられているようでもあった。だがそれは、本来花婿が立つべきスズの隣に立ってみなければわからないことだった。
少し遅れてケンが追い付き、校長は説得に聞こえなくもない言葉をスズに向けて並べ立てていた。声量からしてそれはスズへ届いていたようだが、スズから返ってきたのは泣き声とも喚き声とも判断できない、言葉なんてものを失くしてしまったかのような悲痛で痛々しい音の羅列だった。
私も校長の横で、頭の中から意味のありそうな言葉を選び出し夢中で叫んでいたが、スズは意に介さないようにベンチから立ち上がり、柵の方へと歩き始めた。校長はともかく、私もスズの心へ届く言葉を持っていなかった。校長と私が口を閉じると、スズは立ち止まり私達3人の方をじっと見ていた。私は振り返り、校長の後ろに隠れるように立っていたケンの方を見た。ケンはうつむきながらぼそぼそと何かを言っているのだが、当然そんな声量ではスズには聞こえるはずもなかった。何かを待っているようにこちらを見ていたスズは柵の方へ視線を移し、ゆっくりと柵の方へ歩き始めた。
花婿は駆けだして行かなかった。校長と私は意を決してスズの方へと走り出したのだが、スズは突然歩みを止めて、うめき声に似た声をだしながらその場に座り込んだ。校長はスズの近くに寄って「どうしましたか?」と声をかけ続け、私に携帯電話を差し出しすぐに救急車を呼ぶよう指示を出した。
私は言われるがまま救急へと電話をし、状況や場所を伝えた。この時の私は驚くほど冷静で、感覚が死滅してしまったのだと説明されれば喜んでそれを信じただろう。スズは脂汗を流しながら力なく横になっていて、時折泣き声のようなか細い声で何かを言っていた。校長は自分の着ていたものをスズに被せ、ハンカチで汗を拭いたり、私に水がありそうなところはないかと尋ねたり、せわしなく動き回っている。ケンは先程私達が立っていた場所に立ち尽くし、スズが救急車に乗せられていく時には、力なくその場にへたり込み、座り込んだまま動かなくなっていた。
校長は到着した救急隊員に事情を説明し、私に救急車へ同乗するように求め「病院に着いたら電話するように」と、番号が乱雑に書かれたメモ紙と何枚かの小銭を渡した。救急車は十数分して××病院という聞いたことのない病院へ到着した。私は救急隊員の一人に夜間出入り口と書かれた入り口を案内され、その先にあった長椅子に座って待つように言われた。
目の前にある診察室のまぶしい程の明かりとは対照的な廊下の薄暗い蛍光灯の明かりを辿って、私は公衆電話のあるところまで歩いて行った。私は公衆電話の前で少しの間立ち尽くした。受話器を耳に当てた瞬間に、受話口から今考えられる最悪の知らせが聞こえてくるような、そんな気がしていた。私は覚悟を決めて校長へ電話をし、カラカラになった喉を押さえながら長椅子へ戻った。
長椅子に戻った私には、何かがやって来るのを待つ、とても長い、それこそ永遠に思える時間だけがあった。皮肉だとは思わないが、この時感じた永遠からは質感や圧迫を生々しく感じ取ることができ、いつの日か感じていた永遠よりもよっぽど現実味があるものに思えた。私はその時間の中であの報告書の続きを意味のある文章として思い起こしていた。
「あなたのお話には納得できない部分が多くあります。ですが、ですがなぜCだったのですか?AやBではなく、なぜCがそんな目に?」
「お父さん、そういう言い方はやめてください。まるでAやB君が死ねばよかったみたいな……」
※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。