あれは今から十年ほど前の夏、私がまだ大学で民俗学を専攻していた頃のことです。友人たちと民俗学研究会を立ち上げ、各地の奇習や伝承を調べていました。ある日、資料を漁っていると、一枚の古い地図が目に留まりました。それは、九州山地の奥深くに記された、廃村の地図でした。村の名前は「蛇ノ目(じゃのめ)」。地図には、村の中心に小さな神社と、その脇に「蛇ノ目御前(じゃのめごぜん)を祀る」と走り書きされていました。
私たちはすぐに興味を惹かれ、夏休みを利用してその廃村へ向かうことにしました。当時はまだ携帯電話の電波も届かないような場所で、カーナビも心許ない時代です。古びた四輪駆動車に乗り込み、舗装が途切れた山道をひたすら進みました。道は次第に獣道と見紛うほど細くなり、草木が生い茂って視界を遮ります。何度か道に迷いかけましたが、地図と方位磁石を頼りに、ようやく目的の廃村の入り口らしき場所にたどり着きました。
そこには、朽ちかけた鳥居が傾き、参道には苔むした石段が続いていました。鳥居をくぐると、ひんやりとした空気が肌を刺します。鬱蒼とした木々に覆われ、昼間だというのに薄暗く、まるで森の底にいるような感覚でした。しばらく進むと、ようやく集落の跡が見えてきました。倒壊寸前の茅葺き屋根の家々が、まるで時間が止まったかのように静かに佇んでいます。窓は板で打ち付けられ、黒ずんだ壁には蔦が絡みつき、自然に飲み込まれようとしているかのようでした。
私たちは、資料に載っていた唯一手がかりとなる「神社」を探して村の奥へと進んでいきました。やがて、一番奥まった場所に、確かに小さな祠がありました。しかし、それは想像していたような神社とはかけ離れたものでした。粗末な木で組まれた祠は今にも崩れ落ちそうで、祀られているはずの御神体は、黒い布でぐるぐると巻かれた、得体の知れない塊でした。祠の周りには、古い木札が散乱し、そのすべてに、人の目のような奇妙な紋様が描かれています。
その日の宿は、村の入り口近くにあった、比較的状態の良い一軒家を選びました。窓ガラスは割れ、戸も傾いていましたが、どうにか雨風はしのげそうです。私たちは持参したシートを敷き、簡単な食料を広げて夕食を済ませました。日が暮れると、あたりは完全に闇に包まれ、虫の鳴き声だけがやけに大きく響き渡ります。焚き火を囲み、昼間の探索で感じた不気味さを笑い話にしようとしましたが、誰もが心のどこかで、言い知れぬ不安を抱えていました。
夜中、ふと目を覚ましました。外はまだ真っ暗です。耳を澄ますと、どこからか、微かに水の音が聞こえてきます。しかし、ここには川も滝もありません。それは、まるで、誰かが水面をゆっくりと掻き回しているような、湿った、粘りつくような音でした。私は恐ろしくなり、隣で寝ていた友人を揺り起こしました。「ねえ、何か聞こえない?」友人も目を覚まし、音に耳を傾けました。すると、その音が、だんだんと近づいてくるのが分かります。そして、それは、私たちがいる家のすぐそばで止まりました。
息を潜めていると、戸が、ギィ、とゆっくりと開く音がしました。誰かが入ってきたのです。しかし、足音は聞こえません。ただ、湿った、ねっとりとした空気だけが、奥から漂ってくるのが分かります。私たちは恐怖で身動きが取れませんでした。その時、真っ暗な部屋の奥で、カチッ、カチッ、と何かが音を立てました。それは、古い柱時計の振り子が揺れるような音で、しかし、振り子の音にしては間隔が不規則で、やけに重々しい音でした。その音の間隔が、徐々に早まっていくのが分かります。カチッ、カチッ、カチカチカチッ、カチカチカチカチカチカチッ……。まるで、何かが焦り、苛立っているかのような響きでした。
そして、その音と同時に、かすかに、何かが引きずられるような音が聞こえ始めました。ザーッ、ザーッ、と、重いものが床を擦るような音です。それは、徐々に私たちの寝ている方へ近づいてきます。恐怖のあまり、私は目をつぶってしまいました。その音は、私のすぐそばで止まりました。そして、耳元で、湿った、腐臭のような匂いがしました。
私は意識を失いかけました。どれくらいの時間が経ったのか分かりません。次に意識を取り戻したのは、朝の光が差し込む頃でした。恐る恐る目を開けると、部屋の中には誰もいません。友人も、隣でぐっすりと眠っています。昨夜のことは夢だったのかと自分に言い聞かせようとしました。しかし、ふと、視線を感じ、部屋の隅に目をやりました。
そこには、漆黒の、瞳のようなものが、いくつも転がっていたのです。それは、昨日、祠の周りに散乱していた木札に描かれていた、あの紋様と同じ、人の目のような形をしていました。そして、その瞳の一つ一つが、私をじっと見つめているような気がしたのです。
私たちは、急いで荷物をまとめ、一目散に廃村を後にしました。車のエンジンをかけると、バックミラーに、振り返った村の景色が映りました。そして、あの家々の窓が、まるで、私たちの去る姿を見送るかのように、真っ黒な瞳を開けているように見えたのです。
それ以来、私は二度とあの廃村へは行っていません。しかし、今でも時折、夜中にあの湿った水音と、重々しい振り子の音が耳に残ることがあります。そして、あの廃村の漆黒の瞳が、私をどこかで見つめているような、そんな気がしてならないのです。
























良作!
美しくて印象的なダークアイだったのですね。