駅前のコンビニで、傘を盗まれた。
土砂降りの中、呆然と立ち尽くしていると、見知らぬ女が声をかけてきた。
三十代くらいに見えたが、濡れた髪が顔に張り付き、表情はよくわからなかった。
「よかったら、これ使ってください」
声は妙に平坦で、抑揚がなかった。
けれど、それがかえって印象に残った。
差し出されたのは、ビニール傘だった。断ろうとしたけれど、「構いません、どうせ捨てるつもりでしたから」と言い残し、女は走るように駅へと消えていった。
傘を受け取る理由はなかった。ただ、その場で受け取らない理由もなかった。
ほんの少しの罪悪感を抱きながらも傘を開き、家路についた。
空は低く、通りには人影もほとんどなかった。
玄関先で傘を畳んだとき、ようやく気づいた。
傘の柄のところに、黒いインクで何かが書かれていた。水滴に滲みかけたその文字は、ところどころかすれて読みにくかったが、意味は取れた。
《あなたの家は、あたたかいですか》
《だいじょうぶ、こわくないです》
《もうすぐ、わたしも行きます》
背筋に冷たいものを感じ、思わず傘を遠ざけた。
なんだこれは。
傘を力任せに二つ折りすると、ゴミ袋にねじ込んだ。そして深夜、隣のアパートのゴミ集積所に投げ捨てた。
ルール違反だという意識はあったが、それでも構わないと思った。あの傘と少しでも遠く、そして早く、縁を切りたかった。
その後は、なんとなく落ち着かなかったけれど、朝になり時間が経てば、大抵のことは取るに足らない雑事になる。そう言い聞かせてその日は眠りについた。
翌日もまた雨だった。
出かける前、階下で聞こえた足音がやけに耳に残っている。下の住人だったかもしれないし、新聞配達員だったかもしれない。けれど、その音は、なぜか記憶から消えてはくれなかった。
駅までの道すがら、すれ違った誰かが持っているビニール傘が妙に目について仕方がなかった。きっとただのビニール傘だ。どこにでもあるありふれた、ただの。
その日の夕方、帰宅したとき。玄関に入った瞬間、思わず立ち止まった。
靴箱の上に、傘が一本立てかけてあったからだ。
見覚えのあるビニール傘だった。
濡れた形跡はなかった。まるで、最初からそこに置かれていたかのように、整然としていた。ただ一つ違っていたのは、柄の部分にレシートの裏紙が細く巻きつけられていたことだった。そこに黒の油性ペンで、一言だけ。
《ありがとうございました》
筆跡は、あれに書かれていたものとよく似ている気がした。
部屋の鍵は確かに掛かっていた。窓もすべて施錠されている。






















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