ガラスの糸
投稿者:砂の唄 (11)
「体調が悪いとか、そういうことじゃないの…」そうは言うもののスズの声の調子はいつもとは違っていた。
「でも、少し元気なさそうだよ」私もスズに声をかけた。
スズは少し黙ってから、弱々しく口を開いた。
「声が聞こえるの…赤ちゃんの声…」
私は鈍器で殴られたような衝撃を胸に感じて身構えた。
「どこから聞こえるんだ?その声」ケンが尋問のようにスズを問い質す。その様子だとケンには赤ちゃんの声は聞こえていないようだったが、かくいう私も赤ちゃんの声など全く聞こえていなかった。
「どこって…そこら中から聞こえてくるの…たくさん、大勢の赤ちゃんが何かを喋ってる、そういう感じの声…ケンには聞こえてないの?」
ケンと私は懐中電灯をやたらに振り回しながら周囲を見渡したが、私達が歩き回って舞い上がったホコリ以外動きのあるものは見当たらない。その時、スズがケンの腕を強く引っ張ったようで、ケンは慌てながら「何かあったのか?」と声を上げた。
「赤ちゃんの声がさっきより近づいてきてるの…ねぇ早く出よう、何かおかしいよ、ここ」
ケンは私の顔を見て「出よう」とだけ言うと、スズをかばうようにしながら出口の方へと早足で歩きだした。私は時折後ろを振り返りながらその後をついて行った。
ケンとスズはもう建物の外へ出ていて、私が男子更衣室のドアの辺りを歩いていた、その時だった。私にも赤ちゃんの声が聞こえた。それは「あっ…」というような小さな声で、言葉としては意味を持たない感嘆符のような感じであっただろう。だが、その声のする方向が不可解だった。それは今まで私達がいた室内の方からではなく、今向かっている出口の方から聞こえていた。前を歩く2人の足音や、壁か何かに触れた音と言われればそれまでだが、あれは確かに人間が…赤ちゃんが発する「声」であった。
建物の外へ出ると生暖かい空気が顔へと流れてきた。辺りは静かで車の走る音も聞こえず、虫の声だけが響き渡り、室内に入る前と何も変化はなかったようだ。私はリュックから携帯電話を取り出して時間を確認しようとした。時刻は0時近くで、想像していたよりも遥かに長い時間が経っていた。私は2人の姿を見失っていたが、とりあえず広いところへ出ようと正面の入り口のところまで戻ることにした。
今いる場所は月明かりが明るく差し込み、さっきよりも鮮明に赤ちゃんハウスの外壁の様子を確認することができた。噂通り紫色の外観だったのだが、それは建材の上から塗料を塗っただけのようで、長い年月のせいで所々の色が剥げ落ちてしまい暗い色の地肌があらわになっていた。それは怖いというよりも、ただただ物悲しいという思いを私に抱かせた。
自転車を置いた駐車場の隅の方で私を呼ぶケンの声が聞こえ、私はそっちの方角へと走りだした。隅の方でスズはケンの持ってきたレジャーシートに座り、水筒を取り出して水を飲んでいた。ケンによると、スズはさっきよりは楽な感じになっていて、痛いとか苦しいという感じはない、少し休めば動けそうとのことだった。私はケンとこの後どうするかを話し合った。スズの状態を考えると、また2時間ほどかけて移動するよりも、どこかでゆっくり休んで朝になってから移動した方がいいだろうということで話がまとまり、私達は来る途中にあった公園まで移動することにした。
ケンは話の終わり際に、スズに聞こえないように小さな声で「ユウも赤ちゃんの声を聞いたのか?」と質問してきた。私は少し迷ったが、建物から出る時に一瞬聞こえたと正直に答えた。ケンは戸惑ったような表情を見せたが「俺には全く聞こえなかった」と私に言った。
少し休んだ後、私達3人は自転車に乗って公園まで移動を開始した。当然と言えば当然だが公園は無人で、私達はかまくらのようなドーム状の遊具があるのを発見し、その中へ入り込み、敷物をひろげてそこに座り込んだ。持ってきたおかしや飲み物を並べて、私達はぽつりぽつりと話を始めた。ケンは笑えるような明るい話を延々と一人で話し続け、誰も赤ちゃんハウスのことを話題にしなかった。私は知らないうちにその遊具の中で眠ってしまったようだった。
目が覚めた時は既に日が昇っていて、時刻は6時近くだった。ケンはまだ寝ていたが、スズは起きているようで、体育座りの姿勢で黙って座っている。私はスズに「体調は悪くない?」と尋ねた。
「うん。大丈夫。昨日は心配かけてごめんね。赤ちゃんの声がしたとか変なこと言ったけど、たぶん気のせいだったと思うの。思い込みってやつかな、赤ちゃんの声がするって噂話をたくさん聞いたから、その気になっちゃってたんだろうね」
私はそれを静かに聞いていた。そして自分も赤ちゃんの声を聞いたということは言うべきではないと判断した。それから、私はいつもの明るさを取り戻したスズと色々な話をして、少し経ってからケンも目を覚ました。
「二人で楽しそうに何を話してるんだ?」
「スズがお前のことを大好きだって話をずっと聞かされていたんだよ」
「本当に?スズ、その話もう一度最初から聞かせてくれ」
私達3人は大声で笑った。遊具の中にいるせいかその笑い声は反響し、こだまのように小さくなりながらもずっとそこに残った。それはとても長い間私達を包んでいたように感じたが、実際のところ、それはわずか一瞬の出来事で、マッチ棒に灯った明かりのようなちっぽけなものだったと思う。それでも、そのちっぽけなものがあの時の私達には救いに思えたのだった。
それから夏休みが明けるまで私は2人には会わなかった。会わないようにしていたわけではなかったが、向こうからの誘いもなかったので無理に会うこともないだろうとの考えだった。また、赤ちゃんハウスに行った後にケンとスズは小旅行に行ったそうで、その記念写真が何枚か送られてきた。その写真には楽しそうに笑う2人の姿が映っていたので、私はいくらか安心してあの夜の出来事は掘り起こさない方がいいだろうと思っていた。
夏休みが明けた最初の登校日、私が席に着くと教室の外からスズが笑顔で駆け寄ってきて話を始めた。それはケンと夏休み最後に行った旅行が本当に楽しかったという内容で、私はそれを聞き赤ちゃんハウスでのことはもう尾を引いていないのだろうと思った。休み時間にケンからも話を聞いたが、あれからスズに変わった様子はなく、いつもの元気なスズのままだという。私もケンも口には出さなかったが、あの日のことは忘れよう、もしくは封印しようということをお互い暗黙のうちに了解したのだった。
夏休みが明けてから3週間くらいが経った頃だろうか、ケンが私に相談があると深刻な顔で迫ってきた。相談の内容はスズについてだった。スズはここ最近、体がだるそうで、いつもより元気がないのだという。最初のうちは少し休めば元気になるだろうと考えていたのだが、よくなる気配がなく、むしろめまいがするなど悪化しているらしい。学校には何とか通えているが、今日も体調がよくないからと早々に家へ帰ってしまった、ケンは心配そうに話していた。廊下でスズとすれ違っても一言、二言言葉を交わすだけだった私には気が付かないことだった。
「一回病院で診てもらった方がいい…」そう口に出そうとしたところで私は口をつぐんだ。
ケンと私の頭の中には共通の考えが浮かんでいた、赤ちゃんハウスのことだ。私達の考えは安直なものだったが、あの時のスズの様子と言葉を思い浮かべると、それは簡単に確信へと変わっていった。
「だからさ、その…神社とかお寺とかそういうのに詳しい人とか知らないか?」
「いや、言いたいことは分かるが、赤ちゃんハウスが原因と決まったわけじゃ…」
「でも、一週間以上も続いてるって普通じゃないだろ?」
いくら話し合っても解決策は浮かんでこなかった。
※コメントは承認制のため反映まで時間がかかる場合があります。