風呂場のシミ
投稿者:リュウゼツラン (24)
小学生の頃、夏休みは毎年田舎にある祖父母の家に泊まりに行っていた。
そしてなぜか祖母は、お風呂に入っている僕の裸を必ず覗きにくるのだった。
「やめてよ」と言っても「石鹸持ってきたよ」とか「健康に育ってるか確認するだけだ」とか、適当な理由をつけては、僕の下半身を凝視してくる。
とても可愛がってくれていたし、大好きだったから田舎に行くのは毎年楽しみだったけれど、それだけは唯一憂鬱だった。
中学生になり、不揃いながらも陰毛が生え出した中二の冬、祖母は亡くなってしまう。
脳梗塞とのことで、あまりにも突然の死に、祖父をはじめ、僕ら家族はすぐにその事実を受け入れられなかった。
祖母の葬式から凡そひと月後、いつものように部活を終え帰宅した僕は、制服のまま風呂場へ行く。そして浴室に入ると、壁の一点が目についた。
腰の高さ位の位置にシミができていて、「あれ、昨日あったっけ」と訝しんだけれど、湿度の高いお風呂ではシミのひとつやふたつできてもおかしくはない。カビかと思って擦ってみたけれど、一向に落ちる気配がなかったので諦めて身体を洗う。
まぁ誰かが掃除して落としてくれるだろう。
その後もシミは残り続けていたけれど、僕は特に気にすることもなく中学三年になり、部活を引退し受験勉強に勤しんでいた。
志望校は僕の学力ではやや高望みと思われる偏差値の高校で、毎日毎日勉強に明け暮れた。
風呂場の壁にあるシミは見慣れてしまうと特に気にもならなかったけれど、高さが僕の股間付近にあることといい、シミ全体がクシャッと潰れた顔のように見えることといい、なぜか祖母を想起させた。
相変わらずニヤニヤとふざけた表情に見えるそのシミを視界に入れることすらしなくなったのは、偏に僕の余裕がなくなったからだ。
思うように成績が伸びないことから僕は受験ノイローゼになってしまい、全てにイライラしていた僕のストレスの捌け口は主に母親だった。
「うるせえな!」
「話しかけるんじゃねーよババア!」
強い言葉を母にぶつける度、少しだけ心が軽くなった気がした。
でも少しだけ、どこか罪悪感もあって、母には申し訳ない気持ちになったりもしたけれど、思春期という言い訳を自らに言い聞かすことで、とにかく母に当たり続けた。
受験が終わり、僕は見事に落ちてしまった。土砂降りの中、傘を差さずに受験番号が張り出された掲示板を二十分位見つめていた。母には電話で結果を伝えた。
家路に向かう道中にイライラは頂点に達し、帰宅するとタオルを持って玄関で待っていてくれた母の口から「大丈夫だよ」という慰めの言葉を聞いたとほぼ同時に「死ね!」と叫んでいた。
茫然とした母の顔を今も忘れない。
唇を強く噛み締めた母は、声を出さずに泣いていた。
僕は怒りと屈辱と恥辱に震えた身体を引きずるようにして脱衣所へ行き、肌に吸い付く制服を脱ぎ捨てる。
浴室に入ると、今度は寒さに震え両腕を強くこすりながら、ふと、例のシミへと視線を移す。
「……うわっ!」
シミの顔は、ニヤニヤとふざけた表情なんかではなく、目は鬼のように吊り上がり、明らかに怒気を孕んだ表情へと変わっていた。
それは僕に対しての怒りだと、何故かそう感じた。
祖母が怒っているんだ。僕の母への暴言を聞いていたんだ。
今度の震えは寒さでもなければ怒りでもなく、純然たる恐怖だった。
僕は転がるように脱衣所へ戻り、びしょ濡れの制服に再び袖を通し、リビングの椅子に座りすすり泣いている母の元へ急ぎ、「ごめん」と謝った。
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