暗い足音 精神病院にて
投稿者:鳥人 (1)
私が以前、とある精神病院の厨房で働いていた時の話です。
裏方の仕事だったため、直接患者さんと接する機会はなかったのですが、その病院には認知症を患った高齢者の方が多く入院されていました。
当然亡くなられる方もおられたかと思いますが、私にしてみればただ用意する食事の数が減ったり増えたりするという数字上のことで、別段気にすることもなく日々の業務をこなしていました。
そんなある日の夜、私は一日の業務を終え、厨房で明日の工程を確認していました。
他の人はすでに帰宅しており、広い厨房に残っているのは鍵を預かっている私一人でした。
工程表と向き合っていた私の耳に、ふと物音が聞こえてきました。
顔を上げると、厨房にある大きなドアの向こうから、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、と軽い音がしています。
ドアの前をゆっくりと横切って行ったその音に、ああ、誰かが通ったんだな、と納得して、再び工程表に視線を落としました。
しかし、少しするとまたその足音が聞こえてきました。
今度は、先ほどとは逆方向にドアの前をゆっくりと通り過ぎて行きます。
そうしてしばらくするとまた、来た道を戻るように、何度も何度も。
繰り返し聞こえてくる音に、さすがに不審に思った私はドアについたガラス窓を見つめました。
曇りガラスの向こうは暗闇で、何も見えません。
そもそも、このドアの先は昼間しか使われない食事スペースに繋がっており、食事が終わった後は滅多に人が通らない廊下でした。
真っ暗な廊下で、見知らぬ誰かがただひたすら行ったり来たりを繰り返している姿を想像して、私は気味が悪くなりました。
本当はドアを開けて確認すべきなのでしょうが、もう気づかない振りをして帰ってしまおうと静かに後片付けを始めました。
手を動かしながらも、耳と意識が嫌でも足音に集中してしまいます。
聞こえる足音から考えると、病院のスタッフが履くしっかりした靴ではなさそうでした。
もっと薄くて軽い、スリッパのような。
その時、ぴたりと足音が止まり、私は思わず体を硬直させました。
音は通り過ぎて行ったのではなく、扉の真正面の位置で止まったのです。
もう扉のほうは見られませんでした。
固まった体を無理やり動かして、何事もなかったかのように手早く片づけを終え、私は厨房を後にしました。
電気を消した厨房の奥、扉のガラス窓の向こうから感じる視線は気のせいだと、自分に言い聞かせながら。
仕事を辞めた今でも、思い返すとあの病院には、何か暗い印象が残っています。
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